子どもと読みたい絵本

「鉛筆部隊」と特攻隊員の交流
“学童疎開”描く実話

8月は広島、長崎の原爆の日や終戦記念日があることで、家でも平和について話題にあがったのではないでしょうか。戦後73年、親世代も子ども世代も「戦争」は体験せず、薄れゆく戦争の記憶を次世代に伝えることが課題になっています。子どもが生まれてから12年間本を読んでやっている中で、絵本には何かを伝える力があると感じてきました。今回は、松本市の浅間温泉を舞台にした戦時中の物語の絵本を紹介します。

「僕のお嫁さんになってね 特攻隊と鉛筆部隊の子供たち」高田充也・著
柳沢廣・挿絵
(ほおずき書籍、1944円)

舞台は浅間温泉

1944(昭和19)年8月、浅間温泉に「鉛筆部隊」が誕生しました。隊員は東京世田谷の代沢国民学校の疎開児童455人。彼らの使命は鉛筆で書いて書いて書きまくり、戦争や疎開生活のつらい気持ちを乗り切るということでした。
「疎開」という言葉を知っていますか。第2次世界大戦末期に、攻撃目標になりやすい都市部に住む学童、老人、女性、工場などを分散させ、田舎に避難させた政策を指す言葉です。
この絵本は浅間温泉に学童疎開してきた児童と特攻隊員との交流を描いた実際にあった話です。親元を離れて見知らぬ土地で疎開生活を送る子どもたち。寂しさを少しでも楽しいものに感じさせてくれたのが、引率の先生に命じられた「鉛筆部隊」としての役目と、陸軍松本飛行場からの出撃前に浅間温泉に滞在した特攻隊員のお兄さんとの交流でした。そのお兄さんたちもやがてお別れを告げに来て…。物語は終戦へと向かいます。

元疎開児童田中幸子さんに聞く
原作著者きむらけんさん

鉛筆部隊のその後

終戦後、半年ほどしてようやく故郷へ帰った鉛筆部隊の子どもたち。それぞれの人生を経て、10年ほど前から、浅間温泉で同窓会をしているそうです。
絵本をつくるきっかけとなった書籍「鉛筆部隊と特攻隊もうひとつの戦史」の著者、きむらけんさん(73、東京都目黒区)と、物語にも登場した元鉛筆部隊の田中幸子さん(85、神奈川県相模原市)にお話を聞くことができました。
きむらさんは、疎開児童が通っていた代沢国民学校があった下北沢あたりの歴史文化を日々ブログで書いていたところ、疎開経験のある方からのコメントがきっかけで、鉛筆部隊のことを知ったそうです。それから取材を重ね、この事実を残したいとさまざまな活動をしています。

「ひもじい」伝わらない

戦争の話というと、銃撃戦や原爆のことが主になってしまって、疎開の話というのが少ないと思うと、2人は言います。親元を離れて地方で暮らした体験を、いまの子どもたちに継承していきたいと思いながらも、難しい課題があるそうです。「疎開に来た子どもたちが困ったことの一つが、ノミ、シラミなんですけど、今の子どもたちは分からないですよね。それと『ひもじい』ということが伝わらない」ときむらさん。「おなかがすいてしょうがなくて、お手玉をほどいちゃうんです。中にいった大豆が入っていて、それを食べたんですよ」と田中さんが当時を振り返ります。そういうことが実感として伝えにくくなっているのだそうです。
浅間温泉に来た子どもたちが一番つらかったのは、郷愁というか、家へ帰りたいという気持ちだったそうです。きむらさんは「小さい子なんて、泣いて泣いてしょうがなかったようですよ。先生が気晴らしに松本城の上に連れていってくれたそうなんです。そうしたら、松本駅が見えて、汽車が大きな音で『ポー』っていうんですって。そうすると、もうみんな『帰りたーい!!』って」とわがことのように表情を曇らせました。
「親の方がつらかったんじゃないかしら」と田中さんは言います。鉛筆部隊が疎開に出発する時の駅のホームでは、汽車が動き出すと、お母さんたちが火の出るような声で子どもの名前を叫んだそうです。「子どもだから、正直につらい帰りたいと手紙に書いてしまって。それを見た母が切符も買わずに思わず汽車に飛び乗ったと言って、会いに来てくれたことが1度ありました。途中の検札は山梨の親戚に助けてもらってね。それからは心配させてはいけないと先生に言われ、元気でやっていると書きました」

事実の風化防ぎたい

浅間温泉には3000人もの学童が疎開していたそうですが、どんな生活をしていたのか、特攻隊員と交流があったことなどは、なかなか知られていません。この事実を風化させてはいけないのだと2人は強く語っていました。

「戦争」は戦地で戦う兵隊さんだけではなく、子どももいや応なしに「戦う」ことを強いられるものだということが感じられる1冊です。突然失われる家族と一緒に過ごした日常、昨日まで楽しく過ごした人の死。今の平和な世の中で、家族が一緒にいられることに感謝せずにはいられません。

(桜井一恵)


投稿者: mgpress