丸の内ビジネス専門学校創立70周年 多様性目指した志引き継ぐ

松本市城西1の丸の内ビジネス専門学校は今年、創立70周年。初代学校長の故内川明子さんが、「女性であってもしっかりとした仕事を持つべき」という信念から、同市丸の内の現在の市庁舎がある場所にタイピストを養成する各種学校「丸の内タイピスト学校」を設立したのが礎だ。
現在は、初代の長女、内川小百合さん(67)が2代目の学校長。女性の社会進出、国際化など今でいう「ダイバーシティ(多様性)」を目指した母親の先進的な遺志を引き継ぐ。留学生を積極的に受け入れたり、時代のニーズに合ったカリキュラムを取り入れたりするなどして優秀な人材を輩出。地域経済に果たす役割は大きい。
18日にまつもと市民芸術館で開く記念祭を前に、内川学校長にこれまでの歩みや、今後の展望などを聞いた。

内川小百合学校長に聞く
「女の人も仕事を」母の一念
人材育てたい 今も続く思い

─2代目を継ぎ創立70周年を迎えた
私が生まれる2年前の1948(昭和23)年に母が創立し、学校と一緒に育ってきたようなもので、70年の歴史ができたのは「ありがたい」の一言。なくなった学校も多く、学生や職員、地域の皆さんなどに支えられたおかげだ。
専門学校に認可された76年ころから働いてきた。母が生きている間は「手伝いでいいや」という感じだった。96年、私は45歳で校長になり、母はそれから十数年も生きてくれた。表舞台は私が出るが、経営は母がやってくれた。母が亡くなった2011年からは危機感を持って経営している。
─母親からの影響は
母は国民学校の教諭を辞め、27歳の時に「丸の内タイピスト学校」を創立した。当時は、料理、和裁、習字などの学校と同じ各種学校の一つだった。
女性は家の手伝いはするが、経営者になる時代ではなかった。そんな中、今でいう「起業」をしたのはすごいと思う。しかも生まれたばかりの兄たちがおり、学校をつくって2年後には私が生まれた。今、子育てしながら仕事はできないという人もいるが「それは甘くないか」と感じる。
母に小さい頃から言われたことは「女の人も一つの仕事を持て」だ。女性であっても「サブ」ではなく「メイン」の仕事をしろと。当時、タイピストは女性の仕事で、しかも高給取り。そうした人材を育てて裁判所、病院、大学など、いわゆる「いいところ」に就職させた。「女の人に仕事を持たせたい」という一念だったと思う。「仕事のできる人になって」という根本は、今も引き継いでいる。

大変だからおもしろい

─学校が地域に果たしている役割は
専門学校そのものの役割は力のある人材を社会に出すこと。若い人だけでなく年齢、国籍に関係なくみんなが学べるのが学校。今は15~80歳、18カ国の生徒がいる。
専門学校は動きが速く、半年で変化できる。常に社会の動きに沿った教育を提供し、小規模であるから大手が手を出さないようなニッチな部分をカバーするのも役割だと思う。
─留学生を積極的に受け入れている
1988年に1人の中国人留学生が入学してきて以降、自然に増えてきた。留学生は日本語もしゃべれないし、文化も違う。最初のころは仲間から「何でそんなに手のかかることをするの」と言われたが、今は逆。「どうしたら留学生を入学させられるか」に変わった。現在は全校の半数の約120人まで増えた。
ミャンマーからの留学生がいた。その子は「僕の祖国はビルマ。(軍事政権による)ミャンマーじゃない」と言った。国際的な出来事の渦中にいる子がこの学校にいる。日本は平和だからそんなことは考えない。「若い子でもこんなふうに思うんだ」とかなり刺激になった。
大変だから留学生を受け入れないというのも経営上の一つの選択だが、大変だからこそおもしろいというのがうちの考え方。国際交流が日常でできる。
─今後の展望は
100周年を見て死にたいというのが私の最終ゴール。専門学校の30年後は何をやっているか絶対に分からないが、この学校の雰囲気やスピリットは残したい。今日の自分より明日の自分の方が進歩するという考えを共有でき、必ず力を付けて世の中に出られる学校でありたい。

【学校沿革】
1948年 松本市丸の内の現市庁舎の場所に「丸の内タイピスト学校」を設立
1958年 同市城西1の現在の場所に校舎新設
1976年 専修学校専門課程として全国最初の認可を受ける。県内は同校含め2校が認可。
1994年 サンフランシスコ分校開校
2003年 日本語科新設
2010年 国際関係学科新設

(浜秋彦)

投稿者: mgpress