高美書店に浅井洌自筆の教科書原稿

江戸時代後期の1797(寛政9)年に創業した高美書店(松本市中央2)は、江戸期や明治時代に同店が出版したり仕入れたりした本や教科書などを数多く所蔵する。8代目店主の高美正浩さん(75)は「売れ残り」と笑うが、どれも地方の書店や出版の歴史を伝える貴重な史料だ。
その中で、筆者が分かっていなかった明治初期の教科書の原稿とみられる一筆が、県歌「信濃の国」の作詞者として知られる同市出身の教育者・浅井洌の自筆と判明した。県歌制定50周年で改めて注目される浅井の知られざる事績や、当時の教科書発行の事情をうかがい知ることができる。
地方の個人経営の書店では珍しい出版事業も続ける同店。繁華街の「街の本屋さん」は、江戸・明治期の松本の文化の薫りを今に伝える。

歴史を伝える松本の本屋に
「信濃の国」作詞の教育者の事績

浅井洌の自筆と判明したのは、高美書店で保管していた「書牘(しょとく=手紙・書状)」の教科書の草稿と見られる縦21センチ、横29センチの原稿4枚。仕事や日常生活で使う届け出の用例などが2~3行ずつ書かれ、「春蚕(はるご)の種」など当時の暮らしを意識した語句を織り交ぜている。
近著「信州の本屋と出版」で、明治期の県内の教科書発行の事情も調べた中央大文学部の鈴木俊幸教授(62、国文学)が鑑定。県歌制定50周年記念で松本市博物館などで開催中の特別展(25日まで)に展示された自筆資料や、同書店宛ての浅井の手紙などと見比べ、内容からも浅井の自筆と確認した。
浅井が信楽村(現在の松本市出川町や並柳など)の盛業学校(のち出柳学校)で教師をしていた20代後半に書いたと見られる。市博物館は「副業で教科書の執筆に取り組んだのかも。浅井は字がうまいため、習字の手本にする意図もあったかもしれない」とする。

1872(明治5)年に学制が発布されたが、文部省発行の教科書は全国に行き渡らず、地方で独自の教科書作りが始まった。同書店は1876年に筑摩県が廃止されるまで、同県の教科書や教材の作成を請け負っていた。
しかし、現店主の高美正浩さんによると、浅井が書いた「書牘」の教科書を発行した記録はない。文部省版の複製が許可され、各地で活字による翻刻が行われるようになると、地方独自の教科書は姿を消した。鈴木教授は「浅井が書いたものは、文部省版がコピーできるようになったため発行に至らなかった」“幻の教科書”だと推測する。
1874年に文部省が発行した「書牘」の教科書には、江戸時代の寺子屋で使われた「往来物」同様に、手紙や証文の書き方など暮らしに役立つ文例が並ぶ。
高美さんは「当時、小学校で教えることは生活に役立たないとされ、実学が求められたのを受けて店が浅井に筑摩県版の『書牘』執筆を依頼したのかも」とする。

「信州の本屋と出版」は、高美書店が刊行する「ふるさとライブラリー」の4冊目。「研究者にとってユネスコの文化遺産級」(鈴木教授)という同店に残る史料を中心に、江戸から明治にかけての松本や県内の書店の存在と活動を調べて紹介した。
資料として同店初代の高美屋甚左衛門の日記のうち、1816(文化13)年に江戸へ本の仕入れに行った際の1カ月余のくだりを収録。この部分は初公開で、甚左衛門が江戸の戯作者や狂歌師らと交遊したことが分かる。
明治中期に鉄道が開通した松本をはじめ、中央から本が流入するようになって、同店を含む地方書店の出版事業は廃れたが、「地域の正確な歴史を伝えるため、自分の元に残る史料を世に出す。中央の出版社がやらないことを、松本の本屋がやる」と高美さん。
薫り高い文化に親しんだ江戸期の町人や、明治の新時代に燃えた教育者の心意気を受け継ぎ、伝えていく。

【浅井洌(あさい・れつ)】
1849~1938年。松本藩士の大岩家に生まれ、浅井家の養子に。藩命で東京に出て漢学を学び、筑摩県学(開智学校の前身)、松本中学などの教師を経て、長野県尋常師範学校の発足(1886年)から40年間、同校で国語、漢文、歴史などを担当して教員を養成した。能筆家でもあり、「信濃の国」の歌詞だけでなく、各地の校歌や校訓などを数多く作った。
(山岡史明)

投稿者: mgpress