精緻な寺社装飾 宮彫師・中牧一展さん 右手のハンディ抱えつつ

「後世に残る仕事ができれば」 宮彫師・中牧一展さん 松川村

松川村に工房を持つ宮彫(みやぼり)師の中牧一展(本名・一二美)さん(68)は年末、厚さ30センチのクス材に、のみを入れ、槌(つち)でたたきながら、忙しい日々を過ごしている。
作っているのは山梨県の寺から依頼された欄間。「十六羅漢(らかん=釈迦の弟子で仏法を維持し守る役目の16人)」が題材だ。仕上げるのは全部で6枚。年が明けたら、半分の3枚を寺に納める約束だ。
のみを支えているのは右手。力を込めて槌を打つのは左手だ。「1歳の時、病気で右手の握力を失った。だから、のみも持っているとは言えない。指を輪のようにして、のみに添えているだけ」と説明する。それでも、細かな彫りの作業をこつこつと続け、刃の先は木材を魅力的な作品に変えていく。

勉強が自信に

宮彫は、神社や寺の扉や欄間、柱などに施されている装飾のための彫刻。江戸時代後期から、諏訪地方を中心に県内でも盛んに寺社の彫刻が行われ、全国的にも高いレベルだった。装飾彫刻を専門とする大工が、宮彫師といわれる。
現代の宮彫師として活躍する中牧一展さんの作品は、近くでは八幡神社(池田町池田)の拝殿、大安楽寺(松本市女鳥羽)本堂、牛伏寺(同市内田)惣門、見性寺(山形村)本堂などにある。
今夏は池田町池田の浄念寺本堂にたくさんの作品を納入した。二十五菩薩(ぼさつ)を刻んだ欄間、獅子と獏(ばく)を付けた木鼻、波千鳥を彫った笈形(おいがた)-。観音菩薩と勢至菩薩も収めた。
「丸太から立体を想像して彫り出す。勇気をもって最初の一刀を入れるためには、普段の準備や勉強が必要」と話す声には自信が満ちている。

物づくりの道

中牧さんは八坂村(現・大町市)の農家に生まれた。1歳で小児まひにかかり右手の握力を失ったが、家の手伝いは普通の子ども並みにしたという。何にでも一生懸命になる性格で、ある程度のことは腕の力でこなした。
子どものころから美術が好きで、小学校の担任から絵を褒められたり、友達に感心されたりで自信をつけた。中学では美術クラブに所属し、デッサンに力を入れた。図書館からミレーやゴッホの画集などを借りては持ち歩いて眺める日々だったという。
絵を描く道に進みたかったが、周囲の反対もあり、せめて好きな「物づくりの世界」に入ろうと建具職人や大工に弟子入り。だが、右手のハンディは克服しがたいままに、10代が終わった。
宮彫師の仕事を知ったのは23歳の時。富山県井波町(現・南砥市)に伝わり、国の伝統的工芸品にも指定されている「井波彫刻」が有名と知り、すぐに井波へ。現地で、腕はいいが頑固者と評判の宮彫師、宮窪繁さんを紹介してもらい、内弟子となった。
修業期間は6年に及び、精進の日々を過ごした。昼は師匠の仕事の手伝いや家の雑事をし、夜は下絵を描き写す。写しためた山のような数の下絵は今も大いに役立っている。わずかばかりの給料は資料用の書籍代や、道具を買うために使った。「ゆくゆくは仏像も彫りたかったので、さまざまな種類ののみを600本そろえた」

30代で専業に

29歳で独立。松川村に移っていた実家に帰り、家業の葉タバコ栽培を手伝いながら、個人宅の欄間や置物などを彫っていたが、30代半ばで本業に専念することを決めた。
葉タバコの作業小屋約200平方メートルを工房に改造。重い木材を動かせるよう、天井に移動クレーンを取り付けた。「おかげで天候に左右される建築現場へ行かなくても、ここで作業できる」。効率を良くし、多くの時間を精緻な彫りの仕事に使う。凝り性だが、合理性も身に着けた前向きな性格の表れだ。
以来、積極的に仕事を続け、信州はもちろん、山梨、岐阜、愛知、神奈川、東京、埼玉、茨城など各地の神社仏閣に作品を残している。
寺社専門の設計士や大工とのつながりが強く、依頼の数は多い。それでも中牧さんはおごることなく、「後世に残る仕事ができればそれでいい」と、ひたむきに木を刻む。
(長田久美子)

投稿者: mgpress