5軒の専門店が個性を競う 「人形のまち」高砂通り歩いて歴史たどる

もうすぐひな祭り。松本市の中心市街地にあり、「人形のまち」と呼ばれる高砂通りには、5軒の人形専門店が軒を連ねる。通りを歩くと、華やかな衣装をまとったおひなさまが店頭を飾り、各店が個性を競いながら雰囲気を盛り上げている。
各店で今年お薦めのおひなさまを聞くと、子どもの数が減ってライフスタイルが変わる中、昔の七段飾りの需要は減り、ペアの親王飾りが主流だという。洋風の部屋に合わせたり、オリジナルの衣装で人形を作ったりすることもできるそうだ。
5月の端午の節句、7月の七夕人形、8月の盆ちょうちんなど店の品ぞろえに季節の変化を感じるこの通り。そもそも、なぜ人形専門店がここに集まっているのだろうか。全国的にも珍しいという通りを歩きながら、その歴史もたどってみた。

専門店が集うことで切磋琢磨
「人形のまち」高砂通り 松本市

柄や色などに各店思い込め

松本市中央2の本町通りから高砂通りに入ってまず目に入るのは「村山人形店」。お薦めは美しい布を張り込んだ木目込み人形だ。村山謙介店主(41)の母親で人形作り職人のさえ子さん(67)が県内の職人と分業して作った。現代の住環境に合わせた雰囲気とサイズで、シンプルな人形だ。
次に訪ねたのは「人形の緑屋」。立ち姿の木目込み人形は、伝統的工芸品に指定されている「真多呂(またろ)人形」。平成が終わり新たな元号が始まる年なので、皇室の雰囲気に合わせ品が良くみやびやかな色合わせを選んだという。
この通りに2店舗を構える「花岡人形店」では華やかな3段飾りがお薦め。三人官女や道具なども含め、にぎやかな飾りびなだ。
「林人形工房」に並ぶおひなさまは、着物の柄に上高地や安曇野の風景を描き、「将来嫁いだ先でも信州のことを思い出してほしい」と願いを込めた。

松本市文書館特別専門員の小松芳郎さん(69、中山)によると、人形店が並ぶ高砂通りの起源は、江戸時代、松本城下の下級武士やその妻子たちが松本押し絵びなを作って売ったことだという。文化文政期に、ひな人形を取り扱った「角佐原」という店の名称が文献に残っている。
現在、松本パルコ(中央1)がある場所に生安寺という寺があり、その参道「生安寺小路」として栄えた。甘味処(どころ)やせんべい屋、湧き水が豊富だったことでそば屋が繁盛したという。
明治時代になると、養蚕が盛んになり旧片倉製糸紡績松本製糸工場が近くにあったことで、繭問屋が栄え、冬場の副業としてひな人形を販売するようになった。1898(明治31)年の「松本繁昌記」には「田中商店」という店で押し絵びな人形を売って繁盛したとの記載がある。

高度成長期に人形も需要増

「村山人形店」の創業は1946(昭和21)年。いまの店主の村山さんの祖父が、高砂通りで団子やまんじゅうを製造販売したのが始まり。その後、群馬のひな人形メーカーにひな商戦の時期だけ店を間貸ししていた。当時は他の店でも商戦の時期だけの間貸し、他業種でのひな人形の取り扱いも多かったという。
昭和30年ころ、生安寺の移転や高度経済成長、人口増などの時代の流れがあり、ひな人形の需要が増加。時代のニーズに合わせて団子店から転身し、ひな人形店を開いた。昭和40年代には約20の人形店がしのぎを削っていたという。
創業200年以上という「林人形工房」の6代目店主、林真さん(57)によると、5代目の義母、嘉子さんの時代は高度成長期でひな人形が飛ぶように売れた。在庫がなくなり、自分の人形まで売ることもあったという。
現在は人形に触れてもらう機会を増やそうと、市内の別の場所に「蔵の人形美術館」を作った。人間国宝の堀柳女(りゅうじょ、1897~1984年)をはじめとする作家たちの作品が並ぶ。

子どもの数が減り、ひな人形の売れ行きは減っている。そんな中、高砂通りに今も専門店が残る理由の一つは「高砂人形町会」の存在だ。全店舗が切磋琢磨(せっさたくま)し、人形供養などを毎年合同で行っている。「花岡人形店」の花岡秀好さん(60)は「たくさん集まって売った方がやりやすい」と言う。
かつて、このあたりではひな祭りは月遅れの4月に祝う家が多かったが、最近は全国に合わせて3月3日が多い。その日を過ぎると、高砂通りには武者人形が登場する。

(渡辺織恵)

投稿者: mgpress