がんと戦い続ける柔道指導者柿本さん

「もっと前に踏み込め!」。張りのある大きな声が、安曇野市豊科武道館の柔道場に響く。同市柔道クラブの講師を務める柿本聡さん(38、同市穂高)。大きな体と人懐こい笑顔が印象的。隅々まで目を配る指導で、子どもらの信頼も厚い。がんと壮絶な戦いを繰り広げている顔は、そこには見えない。
3歳で大やけどを負い、小学校ではいじめに遭う─。その後に出合った柔道が生きる支えになったが、27歳で大腸がん、他臓器への転移が見つかった。
「どうして自分だけが」という気持ちは常にあるが、同じ年代のがん患者の会などに参加することで、気持ちを切り替えた。自分と同じ苦しみを味わってほしくないと、講演会などで伝えることに力を注ぎ、「がん晴れ」を信条に日々を送る。

困難乗り越え生きざま伝える

柿本聡さんの人生は、まさに波瀾(はらん)万丈だ。3歳で熱湯の風呂に落ち、首下80%をやけどした。奇跡的に一命は取り留めたが、体の半分ほどにケロイドが残った。
やけどの影響もあり、幼稚園、保育園には通うことなく小学校に入学。そこで、いじめを受ける。教科書を破られたり、上履きを隠されたり。3年生の時には、自殺未遂するまで追い詰められた。「集団生活をしたことがなく、精神的に幼かったんでしょう。行動も幼稚で、周りには理解されにくかったと思う」
そんな柿本さんを変えたのが、柔道だ。警察官の父、小学1年生から柔道を習う弟が、松本市の市民祭でそろって賞状をもらった時、孤独感に襲われた。やけどのあとを人にさらすことに抵抗があり、皮膚移植でうまく体が動かせないことなどから諦めていたが、気持ちが変わった。小学6年生の時だった。
柔道は、年齢は関係ない実力社会。体を動かす楽しさ、居心地の良さを感じると同時に、負ける悔しさも学んだ。対外試合のデビューは中学1年。やけどの痕が見えないよう、Tシャツを着用して臨んだ。
高校は柔道の推薦で松商学園(松本市)へ。団体で県ベスト4に入るなどした。卒業後は「やけどで多くの人に助けてもらった」と介護の専門学校へ進学。柔道とは距離を置くつもりでいたが、「競技者より、指導者向き」の言葉に、再び柔道着を着る道を選んだ。

27歳の春、信じられないことが起こる。減量のスピードがいつもより速いなど不調に気づき、かかりつけの病院で検査をしてもらうと「十中八九、がん」と診断された。
「がんになるのは早くて50代でしょ」との思いを抱え、信州大付属病院を受診すると、「大腸がんと直腸肛門がんで、他臓器にも転移している。30歳まで生きるのは厳しい」。その言葉を聞き「ショックより、俺の人生ここまでかという気持ちが大きかった」と振り返る。
一番つらかったのは「手術で人工肛門になる。柔道はできません」という医師の言葉。その足で高校の恩師を訪ねた。「まだ、できることはあるんじゃないか」という励ましに、柔道と向き合う決意をした。
13時間の手術、術後の激痛、闘病生活-。苦しみを救ったのは、教え子から届いた千羽鶴と「道場で待っています」「勝ち逃げは許さないです。もう一度勝負してください」などと書かれたメッセージカード。子どもたちの温かい気持ちに、大泣きした。
30歳の誕生日を迎え、医師に「生きられないって言ったじゃん。まだ生きてるよ」と勝利宣言したのもつかの間、翌年夏に大腸、肝臓に再発が、リンパ節にも転移が見つかった。「精神が崩壊しましたね。道場に行けず、自殺未遂を繰り返した」
どん底まで落ちた柿本さんを救ったのは、同年代の患者会だ。「初めてすべてをさらけ出すことができた。つき物が落ちたようにすっきりした」。全国的な会合にも顔を出し、恋愛や性、仕事と、若い世代ならではの悩みを共有した。がん患者が連携する「リレー・フォー・ライフ」にも関わり、さまざまな活動をする仲間と出会い、「自分も何かできないか」と感じたことが、今の活動の源になっている。
病気や障害を理解してもらうには、知ってもらうことが必要だ。「自分が話をすることで、発信できることもある」と柿本さん。「講演会は、短期の目標。柔道の目標は5段に昇進し、講道館で開かれる全国高段者大会に出ること。来年には出たい」
NHK大河ドラマ「いだてん」に登場する柔道家、嘉納治五郎(1860~1938年)の言葉をいつも胸に置く。「精力善用(自分の力を善いことに用いる)、自他共栄(他人とともに栄えある世の中にしよう)」
(八代けい子)

投稿者: mgpress