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【講演会聞きどころ】信州大人文学部准教授飯岡詩朗さん 熊井監督街と映画館が学校

市民有志の実行委員会が松本市あがたの森文化会館で開く文化講座「サロンあがたの森」の183回目で、映像文化に詳しい信州大人文学部准教授の飯岡詩朗さん(49、同市)が「1930年の映画監督たち|旧制松高/信大文理学部時代の熊井啓と世界のシネフィリア」と題して講演した。映画監督の熊井さん(1930~2007年)の学生時代のエピソードなどを話し、市民など45人が聞いた。(2月15日)
熊井は旧豊科町(現安曇野市)に生まれ、6歳の時に現在の松本市開智に移住。周辺に映画館が6つある環境で育ち、48年に旧制松本高校に入学。学制改革で翌年、信大の学生となった。講義には出席せず、もっぱら演劇部と映画部の活動に力を注ぎ、縄手の映画館「中劇」に入り浸っていた。
同好の友人や市民を含む「松本映画の会」を主宰し、上映活動や機関誌の発行を熱心に担い、会員は一時期、日本最大の3000人を数えたという。演劇では熊井が脚本・演出を担当し、当時の市民会館で催した有料公演の舞台が、4日間で数千人を動員した記録もあると聞く。
早くに熊井の才能に気づいた恩師の望月市恵教授は、独立プロの助監督として映画界に入る際、不安を口にする熊井の背中を押した。その後、彼が日活に入社し、脚本を書き、助監督になってからも「たとえ商業映画でも、良心を込めた深い作品を」と励まし続けた。
熊井と同じ年に生まれ、後に活躍した深作欣二や浦山桐郎ら多くの映画監督が、地方出身でも都会の大学を出ているのに対し、地方大学出身の熊井は特異な存在と言えるが、映画を単に娯楽として楽しむのでなく「見ること」「書くこと」「撮ること」を区別せず愛好した点において、戦後現れたシネフィリア(映画狂の意味)のゴダールら、ヌーベルバーグの監督たちと共通している。
黒部ダムのトンネル工事を描いた「黒部の太陽」や、松本サリン事件を扱った「日本の黒い夏冤罪(えんざい)」などで社会派の巨匠と評される熊井を育んだ松本の街と映画館が、彼の学校だったと言える。
(谷田敦子)