2020.2.10 ウェブサイトをリニューアルしました

映画監督・廣賢一郎さん自主製作映画「あの群青の向こうへ」

松本市で毎年開く短編映画コンテスト「商店街映画祭」から始まった。
「あの群青の向こうへ」。心にモヤモヤしたものを抱える人の背中を押すような青春ロードムービーだ。監督・脚本は同市松原出身の廣賢一郎さん(24、川崎市)。21歳の時に自主製作した。映画づくり未経験の友人らの協力を得て、人生を懸けて作り上げた渾身(こんしん)の一作。複数の映画祭にノミネートされ、1月には東京・渋谷のミニシアターで念願の劇場公開を果たした。
高校生時代、商店街映画祭に出品し、14年には準グランプリを受賞した。「今の僕があるのは、この街のおかげ。絶対に松本で上映したかった」
映画づくりの原点となった松本。4月、故郷で念願の上映を果たす。

松本の「商店街映画祭」が原点

「『あの群青の向こうへ』は、自分のために撮ったんです」。廣賢一郎さんはそう切り出した。「製作前、僕は後悔や絶望、不安の中にいて、自分がプロの映画監督になれるとは思えずにいました」
その思いをはねのけるように必死で走って作った映画には、作り手の切実な思いがそのまま投影されている。「未熟で不器用な作品だけど、ずっと大切にしていきたい。この作品を作ったことで僕は大人になれたし、次へ進めたんです」

廣さんは、中学生の時に衛星放送で見たハリウッド映画「フォレストガンプ/一期一会」に感激。以降、両親の就寝後や外出時を見計らい、衛星放送で流れる映画をジャンル問わず見まくった。
こんな作品が見たい、自分だったらこう撮る―。いつしかデジタルカメラで動画を撮影するようになった。松本深志高校時代には三脚にデジカメを取り付け、授業風景を撮影したこともある。
「将来ハリウッドで撮りたい。米国に住んでみよう」と、高校生の時、テネシー州に1年間留学。周りに流されず生きる人たちに触れた。「人と違っているのは面白い。自分がいいと思う生き方をすればいいと思えた」。そんな考え方ができるようになった。
映画にのめり込んではいたものの専門学校で学ぶ道は選ばず、大阪大学へ。音楽、絵画、小説、詩など、さまざまな表現活動に興味を持つ友人たちと交流して視野を広げた。
大学1年の時、専門知識もないまま、初めて長編映画の撮影に挑戦。しかし、納得できるものにならず、周囲からも評価されなかっった。
さまざまな後悔も重なり、もんもんとする日々。そんな中で、自分へのエールのつもりで書き下ろしたのが「あの群青の向こうへ」だった。廣さんは“本気”の勝負に出た。
本格的な機材を購入し、映画づくり未経験の友人たちを集めて製作チームを作った。映画関係者の集まりに顔を出してはノウハウを教わった。テレビCMで女優の芋生悠さんを見て「主演はこの人だ」と直感すると、所属事務所へ直談判し、出演を取り付けた。コンピューターグラフィックス(CG)の専門学校に通い、劇中にCGを取り入れた。
製作に200万円余を投じたが、映画が公開される保証はどこにもない。「公開できなかったら協力してくれた仲間に顔向けできない。ロケした松本、大阪、東京では上映したいと必死だった」
作品は18年にさまざまな映画祭にノミネートされて注目を浴び、劇場公開へ。渋谷と松本のほか、大阪や京都などでも上映が予定されている。

「松本の商店街映画祭がなければ、今の僕はありません」と廣さんは言い切る。
当時、松本の中心部では映画館がほぼ姿を消していた。「友達に映画好きが一人もいなかった。映画祭で出会った人たちは、そんな孤独感から僕を救ってくれました」。なにより、自分の撮った作品がスクリーンに映ることがうれしかった。
廣さんは今、ミュージックビデオやCMの映像ディレクターとして生計を立てている。多忙な中でも次回作の脚本を執筆し、映画製作の機会をうかがう。
「サスペンス要素を入れた人間ドラマを書いています。『セブン』などのデビット・フィンチャー監督が大好きなんですよ」。そう話す顔は、松本でデジカメを回していたころの映画少年の顔に戻っていた 。

【あの群青の向こうへ】「未来の自分から1通だけ『ブルーメール』と呼ばれる手紙が届く世界」を舞台にした物語。芋生悠さん演じる家出少女ユキと、中山優輝さん演じる心に傷を負った青年カガリが、さまざまな人と出会いながら東京を目指す。
4月19日午前11時から、まつもと市民芸術館(深志3)で上映。廣監督のアフタートークも。前売り券と高校・大学生は1400円、一般当日券は1800円。松本シネマセレクト℡0263・98・4928

(松尾直久)