戦争伝える釣り鐘ない姿 山形村の古刹・見性寺の鐘楼

後世に残す「物言わぬ語り部」

山形村上竹田の浄土宗「無性山見性寺(けんしょうじ)」。織田信長が勢力を誇っていた頃の1579(天正7)年に再興、開山された古刹(こさつ)だ。山門をくぐると、2年前に改築された本堂。その美しいたたずまいは、思わずこうべを垂れるほどだ。
山門の北側に建つ趣のある鐘楼に、ふと違和感を覚えた。「何かなあ」。しげしげと眺め、はたと気付いた。釣り鐘がない。
戦時中に釣り鐘を供出して以来、この鐘楼はあるじを失ったままだ。一見、役に立たないように思える鐘楼。だが、釣り鐘がない姿こそが、この鐘楼の大切な使命だった。それは「戦争遺産」。
「この鐘楼を見ることで平和を思ってほしい」と、先代住職の宮嵜一雄さん(85)。物言わぬ建物が、平和の大切さを語りかけてくる。

歴史ある鐘を戦争に供出し

見性寺の鐘楼が建てられたのは江戸時代の中期。1728(享保13)年11月に、住職から檀家(だんか)に向けて「寒念仏をしてその資金を得たい」との思いが伝えられたと、山形村村史に記されている。
以降、釣り鐘は朝に夕に打ち鳴らされて住民に時を告げ、大みそかには除夜の鐘として人々の煩悩を清めたりしてきた。「鐘の音は仏の声」と宮嵜一雄さん。人々は鐘の音を聞いて、心安らいだり安寧を祈ったりして過ごした。
1941(昭和16)年、軍艦や兵器などの製造に利用するため、国家総動員法に基づく金属回収令が出され、寺院の鐘も対象になった。見性寺も42年に供出。当時小学1年生だった一雄さんは、その時の様子を断片的に覚えているという。「釣り鐘を下に降ろして、代わりに鐘楼に日の丸を掲げた」
一雄さんの父親で、供出当時の住職だった善雄さんは戦後、「あるじなき鐘楼は見るに忍びず。梵鐘はわれの代に供出したからわれの代に再現したい」と仲間に語っていたというが、53(昭和28)年に脳出血で急逝。思いはかなわなかった。
当時高校生だった一雄さんが住職に就いたのは58(昭和33)年。梵鐘の大切さは分かっていたが、老朽化した本堂や庫裏の修繕が待ったなしの状態で着手できず、いつしか戦争遺産として残しておこうと考えるようになったという。
「釣り鐘のない鐘楼を見て、平和を思ってほしい」と一男さん。普段、その思いを誰に言うわけでもなかったが、年に1度、山形小の児童が授業の一環で寺を訪れた際は子どもたちに説明してきた。「人を殺しちゃいけないと教えている寺が鐘を持って行かれ、その鐘で作られた鉄砲玉が誰かを殺してしまったかもしれない」と。

壁の赤い土蔵 戦時中の記憶

同寺にはもう一つの「戦争遺産」がある。鐘楼の北隣にある、壁の赤い土蔵だ。太平洋戦争末期、空襲の標的にならないよう、各地で土蔵の白壁が墨などで塗られた。山形村でも45(昭和20)年に実施されたと村史に記されている。見性寺の土蔵も東側の面が赤土で塗られ、今でもそのままになっている。
44年秋、陸軍松本飛行場が、山形村に近い現在のサンプロアルウィン(県松本平広域公園総合球技場)の辺りにでき、訓練が始まっていた。「小学校は軍事部品の集積場になっていたし、見性寺の東隣にあった集会場には陸軍兵が寝泊まりしていた」と一雄さん。
90年代半ば、親戚の左官職人が善意で壁を白く塗り直してくれたが、2年前に住職を継いだ宮嵜善文さん(59)が「一面だけ残しておいてほしい」と頼んだという。
戦争が終わり、小学校に残っていた軍用飛行機の部品はグラウンドで燃やされた。その時の地をはうように漂っていた黒い煙が、教科書を墨で塗ったことなどと一緒に記憶にこびり付いているという一雄さん。
善文さんも、釣り鐘はなくとも鐘楼は残していきたい考えだ。釣り鐘がないことこそが、この鐘楼の存在意義にもなっているからだ。ただ、鐘楼は柱が礎石の上に立っているだけの不安定な状態のため、地震で倒れないような措置を講じたいとする。
戦争を体験し語る人はどんどん減り、いずれいなくなる。だが、戦争を経て残されている建物は「物言わぬ語り部」として、その記憶を静かに、長く、伝えていく。