貞享騒動犠牲者の遺骨発掘から70年

遺骨発掘に携わった丸山さん 記憶語る

江戸時代前期の1686(貞享3)年に松本藩内で起きた農民一揆・貞享騒動。松本市宮渕3の丸ノ内中学校北側にある「義民塚」は、処刑された騒動の指導者ら28人を祭り、その歴史を今日に伝える遺産の一つだ。犠牲者の遺骨が1950(昭和25)年に発見されて70年。当時、同校の建設現場で遺骨発掘に携わった建築士丸山森夫さん(94、渚1)が、発見の様子や埋められていた遺体の状況などを、生々しく記憶にとどめている。

工事担当唯一の「証言者」お骨の出始めから埋葬まで

「私はお骨の出始めから埋葬まで全部任された。お骨に会えたから(犠牲者を)供養してあげることができた。よかったと思う」
丸山さんは、こんな思いを口にした。当時の工事担当者はいずれも他界し、今では唯一の「証言者」だ。9日に丸山さんの自宅で取材。耳が遠いため妻佳代さん(87)、娘の村井博子さんが質問を紙に書き、自身が制作した図を指さしながら話した。

指導者多田加助らの刑場 城山南側斜面から頭蓋骨

丸山さんが昭和の終わりころ作成した遺骨発掘の状況図

丸ノ内中の工事現場は城山南側の斜面(貞享騒動の指導者多田加助らが処刑された「勢高刑場」が、この付近にあったとみられる)。地ならしするため、上の段と下の段に分かれ、上の段は5組(社)が担当。丸山さんはそのうち1組の代人(代理人)として参加していた。担当者の中では最も若く、発掘した遺骨の処理を任された。
作業は高い部分を切り土し、トロッコやもっこで運ぶ「人手」に頼る方法で行った。戦後まだ日が浅く、機械を使わない最後の時期だったという。
最初の遺骨1体は、深さ1メートルほどのところから出たが、寝た状態で埋葬の仕方などから義民とは関係がないとみられた(図❶)。何日か工事が進んで、土が最も高い場所の周辺から、頭蓋骨が幾つも出てきた。図❷、❸で骨が出たころから「これだけ遺骨が出たので、もう少し城山の方だといわれていた刑場がこの辺だったと、納得するようになった」。
幾つかの遺骨は腕の骨2本を並べ、その上に頭蓋骨を乗せており「義民のいけ(埋め)方なんだろうと思った」と話す。
図❹で骨が出た際には、近くから真っ黒なヘビが4匹出てきた。「お骨を守っていたようで、何ともいえない思いだった」と述懐する。
出土した遺骨は60センチ角くらいの木箱に入れ、道路北側の畑に埋葬したという。
<義民関係の資料によると、遺骨発掘が行われたのは1950年10月16日~11月17日。処刑された17人を含む18人の遺骨が見つかった。発掘から2年後の52年8月、出川刑場(庄内)で処刑された人も合わせ犠牲となった義民の霊を祭るとともにその精神を顕彰する「貞享義民顕彰会」が設立、義民塚が造られた。義民塚の入り口付近には、指導者・加助のレリーフがあり、加助を含め処刑された28人の名前が刻まれている>

現場の状況図と立体模型を制作 後世に正しい情報を

丸山さんによると、発掘当時は新聞社の取材もなかった。昭和の終わりころ、遺骨が広い敷地全体でばらばらに出たような報道があったのを見て、「間違ったことを残してはまずい。発掘の時の状況を正確に伝えたい」と思い、現場の状況図と立体模型を制作。義民塚を管理していた貞享義民顕彰会(当時)や丸ノ内中に模型を寄贈した。これをきっかけに2006(平成18)年、丸ノ内中に招かれ講演。公の場で話したのは、この時だけだ。今も「義民の遺骨が見つかった状況を後世に伝えたい」との思いは強い。
加助ゆかりの地、安曇野市三郷明盛の出身で「何か因縁があるような気がする」と丸山さん。佳代さんの話だと、車を運転していた20年ほど前までは毎月1日、四柱神社、深志神社などとともに義民塚をお参りするのが習慣だった。

【メモ】貞享騒動  1686(貞享3)年に起きた農民一揆。過酷な年貢に苦しむ農民たちを救おうと、庄屋だった多田加助らが10月、松本城下の奉行所へ年貢引き下げを直訴した。松本藩は騒動が長引くことを恐れ、要求を聞き届ける覚書を出したが、その後返上させ、加助とその一族、同志ら28人を捕縛し、投獄した。11月22日、安曇の17人は勢高刑場(現松本市宮渕)で、筑摩の11人は出川刑場(現同市庄内)で処刑された。
明治維新後の自由民権運動の中で、加助らの権力への抵抗の姿勢が評価された。加助の出身地、安曇野市三郷明盛には、加助らを祭る貞享義民社と、騒動を「生きる権利の獲得のための闘い」として顕彰する貞享義民記念館(1992年開館)がある。