原動力は木曽への郷土愛 82歳の写真愛好家・手塚さんが集大成の個展

「木曽路はすべて山の中~山を守り山に生きる」。2016年、県内初の「日本遺産」として認定された木曽郡6町村と塩尻市にかけての木曽路が持つ文化・伝統の物語性を表すキャッチコピーだ。
地元の旧楢川村(現塩尻市木曽平沢)出身の写真愛好家、手塚確(かく)さん(82、松本市梓川梓)は日本遺産の認定後、構成する42の文化財をはじめ、一帯の風景や行事、職人の姿などを撮影してきた。
その「集大成」と位置づける個展「木曽路と信仰御嶽山紀行、風土記」を14~17日、梓川アカデミア館(同市梓川倭)で開く。旧中山道の11の宿場ごとにまとめ展示する。
「これらの写真は芸術写真ではなく、木曽のドキュメンタリー写真です」と手塚さん。傘寿を過ぎても木曽を撮り続けた原動力は故郷への「郷土愛」だ。

故郷の魅力を多くの人に

緊張感が漂う「職人」の姿も

写真展「木曽路と信仰御嶽山紀行、風土記」は、旧中山道の贄川宿から馬籠宿までの11の宿場に、「木曽漆器」の産地で手塚確さんの故郷・塩尻市木曽平沢を加えた12のコーナーを設け、計約200点を展示する。
贄川宿の「是(こ)れより南木曽路」と刻まれた石碑のある風景は桜の季節を写した1枚。奈良井宿の「お茶壺(つぼ)道中行列」は、にぎやかさが伝わる。妻籠宿の「桧(ひのき)笠」は製作工程が分かるように工夫。漆器、木工などの職人の製作現場の写真は、職人の物づくりと向き合う緊張感が漂う。

手塚さんは22歳の時、旧楢川村の漆器店に就職した。34歳で独立、松本市中心市街地に自身の店を持った。
写真を本格的に撮るようになったのは、30年ほど前、営業で全国を飛び回る中でふと目にした、句集と写真集が一体になった本がきっかけだった。当時、俳句を習っていた妻の志げりさん(77)と「2人で同じような本を出したい」との思いもあった。1991年、手塚さんは松本市出身の写真家、小口和利さんが講師を務める写真教室に入会。本格的に習い始めた。
「芸術的ないい写真を撮るには夜中から明け方までが勝負なんですよ」。写真の魅力にはまった手塚さんは、美ケ原高原で一晩中、星空を撮り続けたり、真夜中に起床して撮影に出掛けたりするなど「むちゃな」ことをしていた。
60歳を過ぎたある年の1月。高ボッチ高原で日の出と月の共演を狙った。午前4時ごろ起床して現場へ。2日間は天候に恵まれず、思い描いた写真は撮れなかった。3日目、朝目が覚めると頭が「くらくらした」。病院へ直行し入院。軽い脳梗塞だった。医師からは「もう一度なったら、重大ですよ」と告げられるほど熱中した。

日本遺産認定「撮影」を決意

21世紀が幕を開けたころ、ライフスタイルの変化もあって漆器が売れなくなった。十数人いた同郷の漆職人からは「仕事がない」と聞いていた。
「このままだと、今までやってきた漆職人としての仕事を子どもや孫に説明できなくなる」。そう思い、漆だけでなく他の伝統工芸職人も含め、仕事をしている姿を写真に残したいと考えた。
約10年かけて木曽の40人の職人を撮影し2012年、写真展を開いた。14日から開く今回の個展の動機が「郷土愛」なら、この時の写真展は職人仲間を思う「友情」にかき立てられての開催だった。
木曽路の日本遺産認定をきっかけに「生まれ故郷の木曽の魅力をもっと多くの人に知ってもらいたい」と、伝統、文化、行事などを写す「木曽のドキュメンタリー写真」の撮影を決意した手塚さん。約5年間、ほぼ毎週2日、松本市の自宅から木曽路に足を運び、カメラに収めてきた。
「風景は何度か行けば必ず撮れる。だが、人物はそうはいかず、一番苦労した」。手塚さんはそう振り返る。
今回の写真展を最後に、木曽をテーマにする写真は卒業するつもりだ。「病気をしなかったら、こうした資料的な写真とは向き合わなかったかもしれません」としみじみ語る。
大病を患って以降、スウェーデン製のカメラ「ハッセルブラッド」での撮影もしている手塚さん。今後について「ハッセルをぼちぼちやりながら、四国八十八カ所の霊場を撮りたい」。気力はまだまだ衰えていない。