黒くすすけた位牌…宗徳庵の歴史に新発見

「小笠原貞慶が開基」裏付け

戦国時代の1595(文禄4)年に創建されたとされる松本市筑摩2の尼寺「寶泉山(ほうせんざん)宗徳庵」。松本十二薬師第六番札所にもなっている。庵には、同庵を開基した人物のものとされる位牌(いはい)が残る。
その人物と伝えられてきたのは小笠原貞慶(さだよし)(1546-95年)。かつて深志城と呼ばれていた城を松本城と改称し、その初代城主となった戦国武将だ。
位牌の表に書かれている戒名は「當庵開基大隆寺殿以清宗徳大居士」。これも貞慶を指すと言われてきた。位牌の裏側は、すすけて真っ黒になっていた。
昨年秋に行われた法要の際、檀家(だんか)の一人がその裏側を布できれいに拭ってみた。太陽光にかざすと、うっすらと名前らしき文字が浮かぶ。その場にいた一同は、思わず目を見張った。

「故信州深志城主」浮かぶ文字に喝采

昨年11月8日に宗徳庵で行われた、年に1度の法要。例年、多くの檀家(だんか)が集まりにぎやかに営まれるが、コロナ禍の影響を受け、集まったのは同庵の檀家でつくる「世話人会」の役員数人だった。普段は祭壇に置かれている同庵を開基した人物の位牌は、法要時は宴席に置かれる。
役員の一人がこの位牌を手に取り、何となく眺めた。そのままだったら、何事もなかったが、ふと真っ黒の位牌の裏側を拭い、位牌を太陽光にかざしてみた。文字が浮かび上がる。「故信州深志城主小笠原右近大夫源貞慶公」。間違いない。位牌の主は小笠原貞慶だった。宴席はやんやの喝采。大いに盛り上がった。
「今まで誰も知らなかった。みんなで驚いた」。世話人会会長の牛山昇さん(71、松本市筑摩)は、その時の様子をそう振り返る。
後日、位牌の裏側をさらに詳しく調べるてみると、貞慶の名前の右上に「文録」と読める文字も。貞慶が亡くなった「文禄4年」に関係あるとみられる。
松本城管理事務所の元研究専門員、後藤芳孝さん(72、同市北深志)は「『右近大夫』などの肩書きはすべて史実と一致する。これで戒名が貞慶のものだということがはっきりとした」と解説する。

寺に伝わる掛け軸独特な画風もしや

この「新発見」は、思わぬ副産物ももたらした。同庵の床の間に長年掛けられてきた掛け軸。位牌の件で盛り上がった世話人会は、寺に「薬師観音像」として伝わるこの掛け軸について、インターネットで調べてみた。
掛け軸は縦2メートル、横76センチ。庵によると、約50年前に一度、色の修復をしたことがあるという。描かれた仏は体全体がふっくらと丸みを帯び、顔は柔和。手にビワの葉と小鉢を持っている。特徴的なのは手足の爪。鋭くとがり、長く伸びている。「獣の足のようで、ここだけ異様です」と同庵の住職、瀧澤泰雲(たいうん)さん(76)。
瀧澤さんが庵に入った2002年当時、しばらく空き家になっていた庵の建物は傷み、至る所に草が生えていた。床の間の天井も雨漏りがしていたが「奇跡的にこの掛け軸は無事だった」という。
世話人会が調べてたどり着いたのが、群馬県甘楽町の宝積寺(ほうしゃくじ)が寺宝として保存している「伝明兆(みんちょう)作観音図」。織田信長の孫、信良が寄進したと伝わる。明兆とは、室町時代の臨済宗の画僧、吉山明兆(きつさんみんちょう)を指し、現存する作品の中には、国宝や国重文に指定されているものもある。
宗徳庵の「薬師観音像」と、宝積寺の「伝明兆作観音図」は、全体の構図や衣の形などのほか、特徴的な手足の爪もよく似ている。
後藤さんは「当時、松本にはこれだけの画力のある絵師はいなかっただろう。この2点を描いたのが同じ絵師だとすれば、どうして離れた場所にあるのか興味深い」とする。

面白い歴史ロマン興味のきっかけに

歴史ファンの好奇心をくすぐる位牌と掛け軸。牛山さんは「歴史のロマンはロマンのまま、想像力を働かせるのも面白い」とした上で、「コロナ禍の中、この観音様の前で手を合わせ、寺に興味を持ってもらうきっかけになれば」と期待する。瀧澤住職は「昨年は本堂再建100年の節目だった。そのせいか、いろいろなことがあった。今、時代の変わり目を感じます」と、しみじみ語った。