【小林千寿・碁縁旅人】#2 世界に日本の囲碁伝える

欧州から院生として囲碁留学をしていた弟子たちと(筆者は右から2人目)。左の碁を打つのは石田芳夫九段=1997年

小さな使命感

快挙!松山英樹が日本人初、アジア人初のマスターズ・トーナメントで優勝!
「僕が勝ったことで、日本人が変わっていくんじゃないかと思います」。その言葉に強い「使命感」を感じ、松山選手の今回の素晴らしい結果の根源を観(み)ました。
そして、自分の世界囲碁普及熱に「使命感」が加わった頃に重なりました。子どもの頃から囲碁界に入り、「碁を生業」にすることが何を意味するか分からずに女流のタイトル、テレビの囲碁講師などをさせていただき世に出ていましたが、自分の立ち位置が見えず「このままで、いいのだろうか?」と自問自答していた時期がありました。
30代前半、1980年代後半、囲碁普及をしながら世界を一渡り観た頃。それは中国、韓国の囲碁界が著しく台頭し始めた頃でもありました。
そして、ある一言に出会い囲碁が日本文化として育まれ、勝敗以上を求められている「棋道」に改めて気づかされ、「世界に日本の囲碁を伝える」意義を確信。それからは欧米の囲碁留学生を受け入れ、『自分の囲碁界に於ける使命感』を信じてきました。
その後、故木谷實九段のご子息から電話を受けました。「外国人の子どもに日本語を教えている先生から、その生徒が君の囲碁の弟子と聞いたよ。君は親父(おやじ)がやりたかったことをやっているよ。戦後の焼け野原を見て、親父は『世界中に碁が広がれば戦争だって無くなるよ』と。だから、俺たちの分も頑張ってくれよ!」と話されました。
そのお電話に随分と励まされました。このコロナ禍で海外囲碁普及は一休みですが、松本の大自然の景色、清らかな水、空気の中でインターネットで世界中の囲碁友達と交流を続け新たに地元の囲碁ファンと出会える機会を頂いてます。
次回から各国の囲碁事情、生活事情をお伝えします。
(日本棋院・棋士六段、松本市出身)