【記者兼農家のUターンto農】#25 稲刈り

はぜ掛け、やりがいと限界

稲刈りのたびに思い出す言葉がある。「秋の日はつるべ落とし」。秋の日は、井戸のつるべが落ちるように、瞬く間に沈むという意味だ。子どもの頃から、稲刈りをしていると、正確には、はぜ掛けをしていると、いつの間にか辺りは暗くなってしまっていた。
今年は、お彼岸中の休日だった。リーフレタスの朝出荷を終えて一休み。気合を入れ直し、1条刈りのバインダーのエンジンをかけて田んぼに向かった。
最初は快調だった。だが、エンジン音が頼りなくなり、止まった。燃料を確かめ、いろいろいじったが反応なし。やむなく、はぜの準備をしている父に登場願った。よく分からないと父は言いつつ、なぜかエンジンはかかった。やはり、農機具マスターへの道のりは遠い。
再び快調に刈り始めた。だが、稲束がまとまらないなど、細かいトラブルは起こる。時間が食われることに焦りも出た。
それでいて、休憩はしっかり取った。農作業の合間に家族で取るお茶の時間が、私は好きだ。今年は、久しぶりに田んぼでナシを頬張って、しみじみしてしまった。
そうこうしているうちに日暮れが迫ってくるというわけだ。
先週の「自然農奮闘記」で中村小太郎さんが書いていたように、実家もはぜ掛けにするのは自家用米だ。面積にして1反余り。後は、業者にコンバインで収穫してもらう。
ずるいという声が聞こえてきそう。でも、はぜ掛けの手間と見返りを考えると、兼業の家族農には、これがほどほどと感じる。
おいしい米を求める人の手を借りれば、もっとできるだろう。お茶の時間も、もっと楽しくなるに違いない。ただ、才覚や意欲が足りない今は、家族総出のやりがいを味わうことにしたい。
日が暮れた頃、父が「秋の日は…」と口にして、小学生の娘に「知ってるか」と教えていた。今年も、滑り込みで稲刈りが終わった。