
地域とのつながり伝わる
松本市深志3の深志神社で、百人一首や十二支を描いた奉納額100点近くが保管されていることが分かった。大正末期から昭和の初めころ、地元の商店主らが奉納した。同神社には主に江戸時代から明治初期に、大型の絵馬類が奉納されている。その“伝統”が額の形で継承されたとみられ、神社と地域の人々のつながりを知る上で、貴重な資料となりそうだ。
5月初め、同神社の絵馬殿に展示してあった絵馬1点を、県立美術館(長野市)で7~8月に開く江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎の特別展に貸し出すため、取り外した。同時に、絵馬殿内で長く見られなかった段ボール箱の中身を点検した。
確認した奉納額は、百人一首関係が86点。このうち4点は判読不能で、1点は百人一首ではない内容だった。十二支の額は、発起人の名を記した額を含め13点あった。
保存方法検討し公開する機会を
百人一首の額は約46×27センチ。金箔(きんぱく)を施した一点一点に和歌と詠み人の姿が描かれ、木枠に町名と商店名・個人名が記されている。町名の多くは小池町、本町、天神町など松本の旧城下町だが、中山や烏川(現安曇野市)など周辺地域もある。
奉納時期の記載はない。宮司の牟禮(むれ)仁さん(74)によると、1928(昭和3)年に同神社が発行した絵はがきには、百人一首とみられる額などを掲げた神楽殿の写真が使われていた。額の中には「高等学校通り」の地名もある。学校は旧制松本高校とみられ、その設立は19(大正8)年。現在のあがたの森公園に新校舎が完成したのは翌年だ。
こうしたことから、額が奉納された時期は(1)天満宮御正忌千二十五年祭(1923年)(2)大正から昭和への「御代替わり」(26年)(3)同神社の社格が県社に昇格(28年)|といった節目が考えられるという。
一方、十二支の額は約76×50センチ。東長澤町(現在のまつもと市民芸術館南側一帯)の人が発起人となり、黒地の板の上部にえとの絵を彫り、下部には町や商店・企業、個人の名前が記してある。
◇
絵馬殿は2002年の「菅公(菅原道真)御正忌千百年祭」を機に改修し、奉納された絵馬類を保管している。しかし、今回確認した百人一首と十二支の額は、同神社がこれまでに調査し、整理した台帳には記載されていなかった。
牟禮さんは「段ボール箱に詰めたままになっていたため、状況を確認した。額の制作には、かなりの技量が必要だったのではないか。枚数も多いので、今後どう保存していくか検討する。何らかの形で市民に紹介する機会をつくりたい」と話している。