
「幼少期に培われた、ハングリー精神があったから、ここまでできた。今でも何かあったら、その心がめらめらする」
死語に近くなった「ハングリー精神」という言葉を使ってこれまでを振り返るのは、今年、創業50周年を迎えた飲食事業などを手がける王滝(松本市笹賀)の永瀬完治社長(72)だ。
松本のかつての繁華街、裏町に構えた約20平方メートルのすし店からスタートし、半世紀。入れ替わりの激しい飲食業界の中で、「古き良き」精神論を心の支えに、荒波を乗り越え、業界をけん引。「前代未聞の逆風」となったコロナ禍にも光を見いだしている。
「あと数年は一線で頑張り、会社をいい形で次に託したい」。一代で大きな城を築いた永瀬社長に、来し方と今後の展望などを聞いた。
「ハングリー精神」で50年
今年、創業50周年を迎えた、王滝の永瀬完治社長に一問一答形式で話を聞いた。
─現在の率直な感想は。
50年は長いようで、短かった。ここ数年はコロナ禍があったので、余計にそう感じる。よく続いたなとも思う。
─創業当時の初心は。
1億という数字が頭の中に大きくあった。いつかは1億円を売ってみたいと。松本の裏町で10席ちょっとのすし店だから当然、そんな金額は売れないけれど、「売ってみせる」という気概だ。
「店をやってみないか」というのは突然の話だった。22歳の時だ。当時は板前をやっていたが、すしだけでなく、おにぎりやお茶漬けなど何でも出した。そして午前5時まで営業するというスタイルに商機を見いだした。最初は月50万円くらいだった売り上げが、1年くらいで100万円近くになった。
─転機は。
まず、1978(昭和53)年に松本駅前にオープンした、イトーヨーカドーの7階に2店舗目を出したことだ。約60平方メートルの一番小さい店だったが、ビルの中に店を作るという初めてのことに苦労した。
他の店舗は全国展開しているような店ばかりで、月1回程度開かれる各店のマネジャークラスなどが出席する会合がとにかく勉強になった。多店舗展開についてもここで学び、今の下地になっている。
次は、長野道の松本インターチェンジ(IC)が本格稼働した平成から、東京・築地の魚がその日のうちに松本に届くようになったことだ。当時、信州の人は圧倒的に「築地ブランド」に憧れていた。郊外の回転ずし店や居酒屋を出すきっかけになり、「魚の王滝」として確立されたといってもいい。
─50年続いた秘訣(ひけつ)は。
7人きょうだいの末っ子。小学4年の時に父が亡くなり、お金に困った。運動など一通りのことはできるのに、ないのはお金だけ。当時、例えばワラビを採るにしても、誰よりも早く採り、それを持続した。ハングリー精神を育んだと思う。50年の出発点がどこにあるか、強いて言ったら、この頃だ。
─コロナ禍をどう思う。
これまで日本の経済は景気が良いことを前提にして培ってきたものがあるが、コロナ禍でそれは違うと気付かされた。葬儀、結婚式の形態も変わった。今後も続くだろう。慣習、風習が変わるかもしれない。大転換だ。
─今後の会社経営について。
創業からずっと黒字を続けてきたがコロナ禍で初めて赤字を経験した。特に2020年から2年間の赤字幅は大変なものだった。ただ、未体験のことを前に子どもの頃の「なにくそ」精神がむらむらと出てきた。いい状態で会社を引き継ぎたい。3年たてばはっきり先が見えるだろう。
─飲食業とは。
人間模様がよく見える商売で、お客に尽くせばヒントを与えてくれる。人間力が試される仕事でもある。長く続けるためには、常にお客さん目線で、自分が仕事に飽きないためにどう工夫するかだ。
王滝沿革
1973年創業。78年、法人化。93年、株式会社に改組。96年、廻(まわ)るすし広場あっちゃん村井店開店。2005年、そば事業1号店、そばきり「みよ田」松本店営業開始。14年、そば処(どころ)小木曽製粉所安曇野店開店。台湾進出。18年、小木曽製粉所フランチャイズ展開開始。現在のグループ管理飲食店舗は44店。