
式年遷宮行事最後を飾る
日本アルプス総鎮守の威厳と風格を漂わせ、標高3190メートルの奥穂高岳山頂に鎮座する穗髙神社の「嶺宮(みねみや)」。昨年から行われた同神社7年に1度の式年遷宮(小遷宮)で、記念行事の最後を飾る嶺宮登拝(とはい)が7月26日から2泊3日の行程で催された。天空の祠(ほこら)へ参る一行に同行した。
26日午後3時。登拝の参加者41人が時折り雨に見舞われながらも、青空が見える涸沢ヒュッテに到着。
27日午前6時15分、同ヒュッテを後に快晴の奥穂高岳を目指して出発。涸沢カールを彩る高山植物の花に癒やされながら、ザイテングラードの急登の岩の道をひたすら登る。同11時、穂高岳山荘から奥穂高岳山頂へ。鎖と鉄ばしごが連続する垂直の岩壁、目がくらむ最大難所の岩場を慎重に登る。
午後0時7分、一行が山頂に到着。休む間もなく穂高神社の鷲尾和浩・権禰宜(ごんねぎ)らにより、神事の準備が進む。石の祠の前に、持参した大きなワサビやスイカ、日本酒のほか、奥宮がある上高地の明神池でくみ取った水を奉献。大自然の水の恵みに感謝する「お水返し」が行なわれた。
0時20分、天空の嶺宮で神事が厳かに始まった。穂高克彦・権禰宜によるおはらい(修祓=しゅばつ)、小平和彦・権禰宜の祝詞奏上、保尊勉・宮司代務者の拝礼と続く。嶺宮の神域の結界の中で、参加者代表の百瀬方康さん(72)と坪田美佳さん(46)に合わせ、全員が拝礼。
もう一人、参拝者がいた。「松本市内からお参りするよ」と言っていた、涸沢ヒュッテ相談役の小林銀一さん(93)だ。携帯電話で中継し、同時進行で神事に参加した。
嶺宮の現在の祠が、最も高い石積みの上に設置されたのは、2014年7月3日。以前の祠は3㍍低い吊り尾根側にあり、山頂から見えなかったが、小林さんと当時の宮司・小平弘起さんの尽力で実現した。
0時55分、霧の山頂を後に下山開始。雷雲が迫り、雨足が強くなる。ぬれた鎖と鉄ばしごは滑りやすく、最悪の条件に。案内人の寺島一夫さん(71)の指示で固定ロープが張られ、最も危険な箇所では元山岳遭難対策協議会員の稲越利夫さん(64)と田中広樹さん(47)が、手がかりと足がかりの位置を指導。全員無事に穂高岳山荘に帰着した。
穂高人形・御船祭保存会の元会長・勝野正道さん(78)は「記念登拝は本宮、奥宮、嶺宮が一度にお参りでき魅力的。何度も登ったが、毎回新鮮な感動がある」。中野市から家族と参加した最年少の片山圭君(10)は「山登りは楽しい。もっと登りたい」と元気な声。
宮司代務者の保尊さんは「全員無事に参拝できたのは、御神徳のたまもの。天空の嶺宮を仰ぐと(穗髙神社の祖神が祭られる)九州の空がオーバーラップして見える」と感慨深げだった。
「安曇族」古里から歴史的参加
福岡・志賀海神社禰宜阿曇幸興さん
今回の嶺宮登拝には、「安曇野」の由来とされる「安曇族」発祥の地で、海神の総社でもある福岡市東区の志賀海(しかうみ)神社の禰宜・阿曇(あずみ)幸興(こうき)さん(30)が初めて参加。宿願を果たした。
穗髙神社の式年遷宮記念行事として昨年11月、同神社の祖神を祭る志賀海神社への参拝旅行が行われた際、穂高光雄宮司から嶺宮登拝の話を聞き、参加を決めた阿曇さん。嶺宮を仰ぎ見て「やっと来られました」「遅くなってしまいました」。
本格的な登山は初めてといい、鎖や鉄ばしごが連続する難所を思い出したのか、「信仰が恐怖にうち勝った」とも。「感無量」と言う阿曇さんの登拝は、これまで先祖たちが成し得なかった夢をかなえると同時に、安曇族の古里と穗髙神社とのつながりをさらに深めた。
(丸山祥司)