[創商見聞] No.91 「井上百貨店」 (井上 裕)

創商見聞 クロスロード」の第91弾は、松本市の老舗百貨店「井上」の社長、井上裕さん。厳しい時代の変化に対応してきた歩みや今後の展望、所感などを聞いた。

これからこそ愛されるように

【いのうえ・ひろし】53歳、松本市沢村生まれ。米国・アラバマ大ビジネス アドミニストレーション(経営)学科卒。2000年4月井上百貨店入社。2021年11月、6代目代表取締役社長に就任。

「井上百貨店」

松本市深志2丁目3番地1号 ☎0263-33-1150(代表)

―街に出る楽しみ
 自分が生まれてから小学生時代を過ごした1970年代まで、井上本店は六九商店街(松本市大手2)にありました。県内初のエスカレーターが設置され、最上階にレストラン、屋上には石の滑り台など遊園広場があった時期です。滑り台の記憶はないのですが、先輩方から昔を懐かしむお話をよく聞きます。少しおしゃれしてデパートに出かける時代でした。
 特に両親から言われたわけではないのですが、小さい頃から将来はここで働く感覚がありました。
 日本の大学も出たのですが、アメリカの大学で再度経営学を学びました。英語は日常会話くらいなら、今も問題ありません。
 「百貨店」。誰が訳したか知りませんが、とても良い訳だと思います。デパートは英語でDEPARTMENT STORE。直訳すれば部門販売か、カテゴリー販売でしょうか。
 「これからの百貨店はどう生き残っていくのか」が、私の日本の大学での卒業論文でした。ニューヨーク、ロンドンなど大都市のデパートでもアパレル専門になってきており、高層階層のビル型ではなく、モール型が世界基準になりつつある。
 「百」売るような浅く広い売り方には限界がある。特化した専門性が求められ、「五十貨店、三十貨店」にしなければいけないのではないか―と論文で書きました。分かっていながらも30年以上経過しました。よく持ったと感じます。
―包装ができない 

 入社は2000年4月。同年10月末にオープンしたアイシティ21(山形村)と同期です。最初は研修で、本店の婦人服売り場の担当になりました。何もできず本当に困りました。まず、「デパート包装」ができないと一人前じゃない。
 女性の先輩に包装してもらったものを自宅に持ち帰り、紙に折り目が残る形を見直して、家にある箱という箱と新聞紙を使って練習しました。また、母親からも教わりました。何とかアイシティ開店時にはできるようになりました。
―アイシティ21
 記憶がないくらい準備が忙しく、オープン後も大変でした。全体を見る余裕もなかったです。
 でも当時、活気は井上本店にもアイシティにもありました。大きな売り出しの時、開店と同時にエスカレーターを駆け上がって、だんだん大きく響いてくるお客さまの足音は忘れられません。ワゴンに追加商品を補充している間に売れていくことも、よくありました。
 実はアイシティ出店前に、会社は最高売上高を記録しています。1990年代のバブル期、本店のみの方が営業実績は良かったのです。
 マーケットを分散させるデメリットは分かっていたのですが、1店舗では生き残れないという見解から、アイシティを出しました。自分たちが山形村に出店しなくても、別の大型資本が店舗を出したかもしれません。駅前よりもロードサイド、駐車場が広い広域モール型を2000年に出店し、時代の変化に対応できたと感じています。
 現在、井上本店よりもアイシティの売り上げが良くなり、逆転してきました。アイシティは生命線になっています。

オープン時のアイシティ21


―松本と共に
 松本商工会議所とは古くからご縁があります。祖父の井上六郎が会頭を務めました(1988~94年)。サイトウ・キネン・フェスティバル松本(92年)のスタートや信州博覧会(94年)などに携わりました。叔父で現会長の井上保も、会頭を務めました(2004~22年)。長く務めたのでたくさんのことがありますが、プレミアム商品券の発行(09年)などが、一番なじみ深いかもしれません。他には、四賀・安曇・奈川・梓川各村との合併から松本市制施行100周年事業など、会頭として関わりました。松本市と井上は並行して存在し、同時進行で運営してきたと思っています。
 自分も現在、商業部会などに所属しているので、まずは一つずつ丁寧に、いろんなことに関われたらと考えています。
―パルコの寂しさ
 松本パルコ閉店のニュースは、一市民として驚きました。競合店としての複雑な心境もありますが、松本に都会の息吹を持ち込んでくれたシンボル。学生の頃からあったものがクローズしてしまうことに、大変寂しい気持ちがあります。
 井上は地元なので「撤退」はできない。この地で勝負していくしかないけれど、時代の変化に対応していくことが大事。
―松本とともに140年
 コロナ禍のさなかに社長に就任しましたが、特別なことはしていません。ただ今後は、建物の老朽化が進むこともあり、大きな決断を迫られることも自覚しています。
 長野県と松本市の情報を、全国に発信したい思いもあります。副社長を中心に他県で開催する「信州物産展」を井上の看板で販売していくことも模索しています。
 子どもの頃から人のお世話をすることが大好きでした。お客さまが買い物を楽しんでいる様子を見るのも好きです。勤続40年を超え、定年を迎えても売り場に立つ社員が大勢いるのは、接客が自分と同じように好きなのかも、と思う時があります。
 鉄道資本や、商社資本、もちろんIT資本があったわけでもなく、全国的にもまれな単体の百貨店として140年歩んできました。これからこそ、地元に愛されるようにしなければならないし、「井上流」の新しい楽しみ方をご案内できるよう努力します。 (聞き書き・田中信太郎)