【闘いの、記憶】柔道・ソウル五輪女子48キロ級銀メダル 江﨑史子さん(52、松本市出身)

15歳で初出場した世界選手権で決勝に進み、ブリッグス(右)と対戦(1986年10月、オランダ・マーストリヒト)

「やばい」と思ってしまった

1988年のソウル五輪で公開競技として初めて実施された女子柔道。48キロ級で銀メダルを獲得したその競技人生は、田村(現姓・谷)亮子との「新旧女王交代」が注目された。旧女王・江﨑の「闘いの記憶」は、テレビ越しに見た田村の強さに「逆転された」と思った瞬間。そして今は、亡き恩師の言葉が彼女の人生を支える。
1990年、筑波大1年だった江﨑は、全日本体重別選手権で5連覇を達成した。その年の12月、彼女が「けがか何かで」欠場した福岡国際の準決勝で、世界女王として長年48キロ級に君臨する英国のカレン・ブリッグスを破ったのが、当時福岡市の中学3年生の田村だった。
ブリッグスは、江﨑が信大付属松本中3年時に初出場して準優勝した世界選手権の、決勝で敗れた相手であり大目標の選手だった。表彰式で表彰台の一番高いところにたった1歩で上る姿を目の当たりにし、「私もああなりたい」と思ってから、ずっとその背中を追いかけてきた。
全日本体重別で田村に寝技で一本勝ちしていたにもかかわらず、ブリッグスを破った田村を見て「強いと思ってしまった」、その時点で逆転されていた─と江﨑。翌91年、6連覇が懸かった全日本体重別の決勝は田村との対戦。どちらが勝ってもおかしくない僅差の勝負だったが、試合が終わった瞬間、心の中で「『やばい、負けたかも』と思ってしまった」江﨑は、旗判定で1─2で敗れた。
「負けたかもと思ったのが、間違いなく敗因。私のその“気”が審判に伝わった。前年に『田村さんは強い』と思ってしまったのと合わせ、精神的にも肉体的にも自分で限界をつくってしまった」。江﨑から田村へ─。女王交代の瞬間だった。

「阿部進先生との出会いがなければ、人間・江﨑史子はなかったかもしれない」と話すその先生は、柔道に専念するため松本松南高から転校した八千代松陰高(千葉県)の柔道部の監督。若くして病気で亡くなったが、江﨑は今でも恩師と慕う。
「技を教わった記憶はほとんどないが、阿部先生にもらった言葉はどれも心に染みている」という中でも、彼女にとって人生の“金言”ともいえるのが、「人は尊ばれなければ成長しない」だ。「私は阿部先生に宝物だと思われ、尊ばれたからここまで来られた」
20代半ばで現役を引退。指導者になることに意識が向かず、柔道と距離を置いた。「ここ15年、道着に袖を通していない」といい、現在は柔道関係者の紹介で、福岡県内の特別支援学校で寄宿舎の指導員として、知的障がいがある子どもたちの面倒を見ている。
「柔道を通して素晴らしい人たちと出会ったから、今の私があるのは事実。柔道で恩返しはできていないが、違った形で何かできれば」と江﨑。日々子どもたちと向き合う中で「この子たちを尊んでいるか?」と自問自答しているという。それも彼女が言う「恩返し」の一つだろう。<文中敬称略>

【えさき・ふみこ】1971年生まれ。鎌田小4年時に松島道場で柔道を始める。中学3年時に全日本体重別選手権で初優勝し、以降5連覇。世界選手権で準優勝3回(86、87、89年)。筑波大1年時の90年北京アジア大会で優勝し、卒業後に実業団の横浜そごう入社。現在は福岡県中間市にある県立特別支援学校・北九州高等学園の寄宿舎指導員。同市在住。