【闘いの、記憶】プロ野球・オリックスのドラフト1位投手 甲斐拓哉さん(33、松本市出身)

オリックスのファンフェスタで紹介される甲斐(21)、西(63)ら次年度の新入団選手。甲斐の右隣は当時の大石大二郎監督(2008年11月24日、京セラドーム大阪)=本人提供

全て失った「あの半年間」

中学時代に松本南シニアのエースとして硬式日本一を決めるジャイアンツカップで優勝し、東海大三高(現東海大諏訪高)でも大型右腕として注目され、ドラフト1位でオリックスに入団。1軍のマウンドに立つことなく戦力外になった未完の大器の「闘いの記憶」は、高校野球を引退してプロとして始動するまでの「空白の半年」。この短い期間を、今も後悔しているという。
「野球人として一番記憶に残るのは、高校最後の夏(2008年)の長野大会準決勝」。この試合で甲斐は、中学時代のチームメートが主力の松商学園を9回3安打に抑え、自責点1ながら味方の失策で3-4で敗れた。
一方で最速151キロをマークし、ドラフト候補として改めて注目されたのもこの一戦。「野球雑誌の表紙に、自分が『どかーん』と載った時は、さすがに驚いた」と振り返るが、この試合は仲間たちと戦った「青春のよい思い出」。悔やまれたのはその後だ。
高校野球を引退して約半年間、それまで味わうことができなかった別の青春を謳歌(おうか)した。ほとんど練習せず、翌年1月の新人合同自主トレに臨んだ。「『休み肩』だが、投げられないことはない」と投球を始めたが、1球投げてすぐに気付いた。「フォームが分からない」。その時点で、投手として築いてきたものを全て失っていた。
しかしその自覚はなく、アピールするために、がむしゃらに投げた。故障は当然の結末。自主トレ開始直後、同じ高卒投手でドラフト3位の西勇輝(現阪神)に「ここに来るまで練習してきた?」と尋ねた。「毎日吐くほど練習してきた」と西。「この時点で、その後の2人のプロ野球人生が、違うものになると決まっていた」と甲斐。
その年の8月、2軍のウエスタン・リーグ広島戦でプロ初登板を果たすが、1軍から呼ばれることはなく、時間だけが過ぎた。ようやく投手としての輝きを取り戻せる手応えをつかんだ3年目のオフ、育成選手での再契約を告げられ、「精神的に完全に切れた」。
4年目。心技体の技と体はプロになってから最高だったが、「心」が折れていた。そのギャップを最後まで埋められず、シーズン終了後に戦力外通告を受けた。翌年故郷に戻り、BCリーグ・信濃グランセローズでも投げたが、3年で見切りを付けた。

松本市職員になり9年目。維持課で市道などの整備に汗を流す傍ら、現在は市役所のチームで白球を追いかけている。「プロになってよかったとは思う。が、あの半年間だけは…。積み上げたものが、あっという間になくなった」としみじみ。
「18歳の自分に会えるなら、『プロとして成功したいんだろ!』と言ってやりたい。そして今できることは、この経験を子どもたちに伝えること」。栄光の“ドラ1″も人間。「後悔している」と言える人くささが、現役時代は見せなかった魅力だろう。<文中敬称略>

【かい・たくや】1990年生まれ。小学3年生で野球を始め、女鳥羽中3年時にリトルシニアの全国選抜大会とジャイアンツカップで優勝。東海大三高では1年秋からエースで3年春に県大会準優勝、夏は4強。2008年のドラフト会議でオリックスから1位指名。12年退団し、13~15年は信濃グランセローズでプレー。16年4月から松本市職員。