碌山美術館元職員 故・横山拓衛さん「名物おじさん」の生き方を伝えたい

横山拓衛さんの記念碑を見ながら、「なまくら観音」の版画などについて話す偲ぶ会の参加者(右端が当時担任だった山崎洋さん、その隣が中村さん)

創成期支えた功労者 忘れずに

碌山美術館(安曇野市穂高)の元職員で民話「なまくら観音」を作った横山拓衛さん(1921~77年)。同市出身の作家臼井吉見の小説『安曇野』にも登場、「名物おじさん」として親しまれた。
亡くなって半世紀近く。彼を知る人は次第に少なくなった。「横山さんの生き方を多くの人に知ってもらいたい」。当時、穂高中学校の美術教師で交流があった画家の中村石浄(本名・次郎)さん(87、松本市岡田下岡田)らが、改めて横山さんに光を当てたいと動き出している。
8月10日には、77(昭和52)年度に穂高中1年で民話の版画を制作した生徒たちが、中村さんの呼びかけで同級会を兼ねた「なまくら観音偲(しの)ぶ会」を開催。横山さんの生家前の記念碑を見学し、思い出を語り合った。

「なまくら観音」記念碑で同級会

安曇野市穂高、横山拓衛さんの生家。47年前、穂高中(旧穂高町)で「なまくら観音」の版画を仕上げた生徒たち十数人が、記念碑を囲んだ。同級会は、作品50点を掲載した本が発行された1995(平成7)年以来で、本年度は皆が還暦となる節目だ。
「今見ると上手ではなくても味がある。いい作品だ」。版画を指導した中村石浄さんは本をめくりながら素朴な作品を評価し、参加者から笑顔がこぼれた。担任教師だった山崎洋さん(73、上田市)、美術館友の会で活動する横山さんの息子の正身さん(75)も加わった。
「なまくら観音」は欲深な地主に対し、働き者の怠作(なまさく)が怠け者を装って盾になり、他の下働きの人たちの仕事を和らげた物語だ。幹事を務めた山本(旧姓矢口)恵子さん(59、池田町池田)は「私たちが中学生の時、横山拓衛さんは亡くなっていて物語も知らなかった。授業で勉強して版画を彫った」と振り返った。
本になったのは、版画制作から18年後。元穂高中校長の腰原利由さん(故人)や中村さんらが発行。その売り上げで資金をつくり、2年後の97年に碑を建立した。
碑には「無私風来の自由人」の銘がある。小説『安曇野』第5部で、臼井吉見が横山さんを表した言葉だ。臼井は「碌山美術館のぬしではあっても、現代に住める人ではない」と記述。古オルガンを演奏しながら、「信濃の国」を大きな声で歌ったエピソードなどを紹介している。

横山さんは55(昭和30)年ころから始まった美術館建設の仕事に関わり、館の敷地に木曽から水車小屋を移築した「深山軒」に住み込んで働いた。同館のグズベリーの椅子やテーブルを製作した。
館長の幅谷啓子さん(74)は「碌山館の創成期を支えてくれた人。いまだに語り継がれ、(館を)訪れた人の心に残っている」と話す。最近も、館に足を運んだ年配の女性らが「お世話になった」「帰りの電車がなくなり深山軒に泊めてもらった」など、横山さんを懐かしがったという。
しかし、死去後47年がたち、横山さんの人物像は地元でも人々の記憶から薄れがち。中村さんは「碌山美術館の建設やその後の発展に貢献した人なのに、今の人たちには忘れ去られようとしている」と危機感を抱く。折を見て、横山さんの生きざまを伝える機会を設ける考えだ。

25年11月講座で横山さん話題に

美術館側もこれに呼応。毎年11月に行う美術講座の一つ「ストーブを囲んで」で、2025年度の事業として横山さんを取り上げる方向で検討を始めた。日取りなど詳細は今後詰めるが、横山さんと関わりのあった人にも呼びかけ「横山拓衛さんのことをみんなで語る会にしたい」(幅谷さん)としている。

【碌山美術館】
彫刻家・荻原守衛(1879~1910年、号・碌山)の作品と資料を保存し公開するため1958年に開館。TEL0263・82・2094