【闘いの、記憶】30キロ競歩元日本記録保持者 原義美さん(56、松本市出身)

世界陸上の50キロ競歩で17位に(ゼッケンナンバー634)=2001年8月、カナダ・エドモントン

驚異のラップ 会心の歩き

30キロ競歩の元日本記録(2時間10分9秒)保持者で、2001年の世界陸上選手権(カナダ)にも出場した。「たいして強くもない選手が、日本代表になりたい一心で、もがいただけ」と競技人生を振り返るアスリートの「闘いの記憶」は、競歩との出合いと、今でも記憶に残る日本最高記録を出した「会心のレース」だ。
松本美須々ケ丘高の陸上部で長距離に取り組んだが、「大会でビリ争いをするような弱い選手だった」。1年生の夏、監督に「競歩をやってみないか」と勧められた。種目について知識は全くなかったが、長距離を続けても芽が出ない自覚もあり、挑戦することにした。
その秋、中信地区の新人大会で初めて歩き、3位になった。「いきなりの表彰台。天にも昇る気持ちだった」。競歩人生の号砲が鳴った。

1996年は会心のレースを成し遂げると同時に、大きな節目の年になった。大目標だった同年のアトランタ五輪出場は達成できなかったが、地道な努力が認められ、4年後のシドニー五輪の有望選手として、当時陸上に力を入れていた三英社製作所(東京)に就職が決まった。
大学を卒業後、ほぼアルバイトで生活しながら競技を続けてきた原にとって、実業団入りは願ってもない話だった。「手土産を持っていけば、さらに待遇がよくなるかも」と勇んで臨んだのが、9月に石川県で開かれた全日本競歩根上大会(現・能美大会)だった。
30キロのレース展開は鮮明に覚えている。まず20キロ競歩の日本記録保持者が先頭で引っ張った。「さすがに速いな」という不安が頭をよぎる中、「自分に余裕があると相手に思わせ、プレッシャーをかける」作戦を取ることに。
それがまんまと成功した。先頭の選手は終盤に崩れ、逆に自身は「ゾーンに入った」。いくらでも歩ける─という感覚のままゴールし、それまでの日本記録を3分余り上回った。それ以上に、中間20キロの5キロごとのラップが、ほとんど同じだったのに驚いた。「1時間半以上歩いて、5キロのラップが1秒も違わないというのは、本当にすごい」。会心のレース─と自賛した、もう一つの理由だ。

2000年のシドニー五輪代表をあと一歩で逃したのが「競技人生で一番悔しかった」。このままでは終われない─。その悔しさが、翌年の世界陸上出場につながったが、「五輪を逃した悔しさは、五輪に出て晴らすしかない」。04年のアテネ五輪を目指すが、選考会で年齢が一回り下の選手に続けて負け、36歳で「もがく」のをやめた。
現在は、安曇野市の「トレーニングジムZERO」穂高有明店のトレーニング総責任者のほか、ランニングやウオーキングスクールの講師を務める。
「競技中に走りたくならないか?」。何百回も聞かれたという質問をあえてぶつけた記者に、「競歩選手が『走りたい』と思ったら失格」。即答だった。「ビリ争いをしていた自分をここまでにしてくれた競歩には、リスペクトの思いしかない」と。<文中敬称略>

【はら・よしみ】 1968年生まれ。専修大4年時に全日本学生選手権(インカレ)1万メートル競歩優勝。実業団のクボタに入社したが、故障で1年で退社。実家に戻り競技を続け、96年に三英社製作所入社。2000年、同社陸上部が廃部になり退社。04年に現役引退を決意。08年に「トレーニングジムZERO」を現社長の丸山主税さんと設立した。