松本市の市民文化講座「サロンあがたの森」は、戦前に信濃毎日新聞主筆を務め、「抵抗の新聞人」として知られる桐生悠々(1873~1941年)の全体像に光を当てた連載を執筆中の、信毎編集委員・増田正昭さん(70、長野市)による講演会「『非常時』と『戦争』の間ー桐生悠々とその時代」を市あがたの森文化会館で開いた。市民など48人が聞いた。(9月28日)
桐生悠々に見る「非常時」
悠々は37歳から約4年間信毎主筆を務め、新愛知新聞(現中日新聞)主筆を経て55歳の時に信毎主筆に復帰し、5年間務めた。1933年8月11日付の社説「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」で陸軍の作戦を痛烈に批判したため、県内の在郷軍人らが激怒して信毎の不買運動に発展。経営基盤が脆弱(ぜいじゃく)だった信毎はあらがい切れず、悠々は辞任させられた。
その後は名古屋市で雑誌「他山の石」を刊行し、反戦・反軍を訴えた。この時60歳。11人の子どもがあり、生活苦だった。特高警察の監視や発禁処分を受けながらも書き続け、当時の覚悟を「蟋蟀(こおろぎ)は鳴き続けたり嵐の夜」と詠んだ。亡くなる直前まで発刊し続け、41年9月、長男の膝の上で逝った。68歳だった。
戦後、佐久市出身の作家・故井出孫六さんらが悠々の不屈の生き方を調査、出版し、「反骨の反戦ジャーナリスト」といった言論史に残る人物として語られるようになった。
昨年、私が信毎の150年史をたどる過程で、悠々が一貫した反骨の抵抗人ではなかった事実を見つけた。それは満州事変を支持して満蒙(まんもう)開拓を推進し、治安維持法違反で検挙された「二・四事件」の教師を糾弾した社説だ。長年抱いていた像が壊れ、衝撃だった。
メディア史を振り返ると、日本の新聞の100%が満州事変を境に「非常時」の名の下、総崩れで戦争に賛成していった。悠々もその一人だったことを直視せざるを得なかった。事実「非常時だから我慢しなければ」と書いている。
悠々は晩年、「戦争がまん延する『畜生道』と別れを告げ、平和の時代が来る」「満州は支那に返さなければ」「二・四事件も言いすぎた」と反省の弁を書いている。大きな挫折を経て本当の記者になったのではないか。
悠々までが戦争に加担した「非常時」とは何なのか。その謎を解くのが課題だ。コロナ禍の「緊急事態」で萎縮した体験を持つ私たちだからこそ、悠々の言論を素材に非常時の意味を歴史的に問い、表現の自由についても考えを深める必要がある。