【闘いの、記憶】トリノ冬季五輪スノーボードクロス代表・千村格さん(49、木曽町出身)

妻の有紀子さんが営む木曽町福島の「ギャラリーカフェSOMA」で(12月5日の取材時)

“草レース”での自信と確信

ジャンプ台やバンクなどが配置されたコースを滑る雪上の障害物競走「スノーボードクロス(SBX)」。同競技の五輪初代代表にもなった元プロスノーボーダーの「闘いの記憶」は、アマチュア時代にプロに交じって出場した“草レース”。そこで得た自信と確信が「競技人生のハイライト」という五輪出場につながった。
2001年、SBXのアマ選手だった千村は、群馬県で開かれたプロ・アマ混合のオープン大会に出場した。当時新種目のSBXの人気はうなぎ上りで、どの大会も男子だけで200人近くが出場する時代だった。
この大会は、予選に国内初のタイムアタック(1人ずつ滑ってタイムを競う)が採用されていた。「コース取りやジャンプの仕方など、自分なりの理論を持っていた。それを実現できさえすれば…」と、自信を持って臨んだ千村。
滑り終えると順位を示す掲示板の前に選手が集まり、ざわついていた。「千村って誰だ?」。30位くらいまでをプロが占める中、1位は無名のアマチュア。「『千村はここにいるよ』って言いたくなりましたね」。プロとしてやっていく自信が、確信に変わった瞬間だった。

02年に27歳でプロに転向し、同時期にSBXの06年トリノ五輪での実施が決定。大目標ができて勢いがつき、翌年は国内ランキングも首位か2位に。しかし、04年に初参戦したW杯など世界の壁は高く、「通用するかも」という希望的観測は全く甘かった。ミスらしいミスをしていないのに、予選すら通過できない現実。“理論派”を自認するだけに自身の考えと成績がかみ合わず、「自分の滑りに疑心暗鬼になった」。
そうした状況を打開できないまま臨んだトリノ五輪。地元の壮行会などでは「メダルを狙う」と口にしたが「リップサービス。何とか予選だけでも突破できれば」。必死の思いだった。
五輪のコースは得意のジャンプセクションが多く、よいイメージを持っていた。予選のタイムレースを通過32人の27番目で突破。4人で争う決勝トーナメントの1回戦も2着で準々決勝に進んだが、内側から突っ込んできた同走者と接触し転倒。続く13─16位決定戦も最下位に終わった。
「16位は今思えば上出来」と千村。ただ五輪後、仲のよい選手から「(転倒の原因となった)あのライン取りは、トップ同士のレースではあり得ない」と指摘された。世界と戦う経験が、まだ足りていなかった。

10年に現役を引退。電力会社関係の山林伐採に数年携わった後の19年、重機で伐倒できない場所の木に登り、上から徐々に切っていく「特殊伐採」などを請け負う「木曽ツリーワークス」(木曽町新開)を創業した。
高度な技術と事前の手順の確認などが大切という特殊伐採は「SBXでスタート地点からコースを見下ろし、攻略法を練るのと似ている。とても楽しい」。理論派の顔は、現役時代と変わっていない。
<文中敬称略>