石川数正、康長父子をしのぶ 正行寺で「念持仏」法要

石川家改易の背景も解説

松本城を築いた石川数正、康長父子をしのぶ「念持仏」法要が11日、松本市大手5の正行寺で営まれた。市教育委員会文化財課城郭整備担当・研究専門員の上條昌明さん(63)が「関ケ原の戦と石川康長」の題で話し、石川氏が慶長18(1613)年に改易となった背景を解説した。
石川数正は長年仕えた徳川家康から豊臣秀吉の元に出奔。文禄元(1592)年には父子で朝鮮出兵のため肥前名護屋(佐賀県唐津市)へ出陣したが、数正は死去。康長が家督を相続した。「天下分け目の戦い」といわれた慶長5(1600)年の関ケ原の戦いでは東軍(徳川方)に属した。慶長18年、徳川政権の代官頭として権勢を振るった大久保長安の不正蓄財事件に連座して石川家は改易となった。
上條さんは、石川氏に関する史料が少ない中で、関ケ原の戦いに至る情勢やその後の経過を、康長の動向を挟みながらたどった。康長が、関ケ原の戦いに関して大久保長安から指示を受けるなど深く関わっていたことを指摘。「大久保長安との関係を頼りに徳川譜代の武将に戻るという決断をし、歩みを進めてきたことが、石川家の未来を決めてしまった。歴史の中では悲しい出来事だった」と述べた。