師走のミステリー あがたの森文化会館に北杜夫さん自筆のはがき届けられる

経緯知りたい 届け主は連絡して

旧制松本高等学校(松本市)出身で作家の北杜夫さん(本名斎藤宗吉、1927~2011年)が同校在学中、親交のあった桐原義司さん(元松本市教育長、1905~99年)に宛てたはがきが、市あがたの森文化会館(県3、旧松高校舎)で見つかった。12月7日朝、透明の袋に入れ、同会館玄関奥にあるブックポストの上に置かれていた。はがきには駅伝で優勝したことなどが書かれ、北さんが松高へ入学した1945年のものとみられる。文化会館隣の旧制高等学校記念館には、はがきを撮影した写真があるが、実物はなかったという。79年前の北さん自筆のはがきが1通だけ現れた“師走のミステリー”。両館は経緯を知りたいと、「届け主」からの連絡を待っている。

松高入学当時の駅伝などに触れ

十一日に行った駅傳(伝)には僕達理乙二組優勝して実に愉快でした」
北杜夫さんが、桐原義司さんに宛てたはがきの文面だ。「授業は今午前中だけなので楽です」とし、食糧燃料問題などから冬休みが「十二月8日頃より二月末まで」など、学校の状況を記している。
著書『どくとるマンボウ青春記』で旧制松本高校時代の生活ぶりを描いた北さん。松高への入学は太平洋戦争末期の1945年で、6月に思誠寮へ入寮した。その後は大町で勤労奉仕に従事。敗戦後の9月に学校が再開されたものの冬は休校になるなど、混乱期だった。はがきの消印の日付は不明だが、駅伝が行われたのは11月11日だったとみられる。
北さんが45年6月~47年12月、大学ノート6冊に記した「憂行日記」(その翻刻を2021年、新潮社から発行)。45年11月11日は「松高伝統の駅伝の日」とし、「俺が選手となった事は何としても理解出来ぬ…中学の友達が聞いたら、腰をぬかしてしまうだろう」と書いた。この日記以外にも駅伝に触れた文があり、「かけっこが苦手」の北さんには思い出深い一こまだったようだ。

桐原さんへのはがきは、今回見つかった1通を含め10通を撮影した写真を、旧制高等学校記念館が保管。東京から松本へ来て(思誠寮へ)入寮、東北の医科(東北大医学部)の受験など、その都度近況を知らせ、お世話になった感謝の意を伝えている。
一方、松本市や東筑摩郡などの小中学校教員を務めた桐原さんは、35年ころに短歌結社「アララギ」に入会。北さんの父で歌人の斎藤茂吉と交流があり、茂吉からは手紙で「宗吉をよろしく」と頼まれていた。「憂行日記」によると、45年当時は里山辺国民学校の校長だった。

文化会館の元職員らによると、はがきの写真は1993年に記念館が開かれるまで、前身の「旧制松本高等学校記念館」(文化会館2階)に展示されていた。「桐原さんからはがきを借りて接写し、はがき自体はお返しした」(元職員)。当時、桐原さんは文筆活動をしていた。
記念館は21年、北さんの家族から遺品約2千点の寄贈を受けた。その遺品を含め北さんに関する資料整理を行っている学芸員の鈴木美恵さんは「記念館には写真はあったが、はがきの実物はなかった」と話す。
文化会館と記念館の館長を兼務する木下守さん(62)は「実物なので貴重な資料として保存していきたい」としつつ、「複数あったはがきのうち、なぜ1通だけが届いたのか、他は散逸したのか気になる。届けてくれた人は匿名でもいいので知らせてほしい」と呼びかけている。
旧制高等学校記念館℡0263・35・6226