
市之瀬ミシン商会 松本市
松本市の中町通りにあるミシン販売と修理の「市之瀬ミシン商会」(中央2)は、1925(大正14)年創業。今年100年を迎えた。代表の市之瀬浩(ひろ)盟(あき)さん(62)は、修理などで県内外を飛び回り、母の英子さん(88)が“看板娘”として店を守っている。
創業した祖父の子年(ただとし)さんが基礎をつくり、父の佳俊(すみとし)さんが大きくした。浩盟さんは、数少ないミシン修理の専門家となった。真面目で丁寧な仕事ぶりと、どんなミシンでも修理する知識と技術は、3代変わらない。
ミシンが高級品で花嫁道具だった時代、縫製工場がたくさんあった時代、修理のきかない安価なミシンが好まれる時代…。技術の価値は変わってきた。
商店街から観光地「蔵の街」となった中町の、「街のミシン屋さん」を訪ねた。
3代目浩盟さん確かな修理の腕
市之瀬ミシン商会の店内に入ると、古い足踏みミシンが並んでいる。重い鋳物やスチールでできたミシンには装飾があり、高級な品だとわかる。「貴重な物だから飾っている。今は電子化されているが、この足踏みミシンが一番丈夫」と市之瀬浩盟さん。
祖父の子年さんが、坂北(現筑北村)から出てきて中町に家を構えた。にぎわう商店街の一角にあった洋裁学校のミシンを扱ったのが始まりだ。
当時は洋服を自分たちで作る人が多かった。女性が花嫁修業に洋裁を学び、ミシンは嫁入り道具の一つだった。その後は「仕立屋さん」、大きな縫製工場へと、メインの取引先は時代と共に変わっていった。近年は家庭でミシンを使わなくなり、大きな工場は海外に移り、ミシンの需要は減った。
だがここ数年、「人と同じ物を着たくない」とミシンを買って洋服を作る人、感染予防のマスクを縫うためにミシンを使う人、母親の嫁入り道具の古いミシンを修理して使う人などが現れてきた。「少しだけれど、増えてきてうれしい」と浩盟さん。
浩盟さんは東京の大学を卒業後、ミシンメーカーに就職し、メンテナンスで全国を回った。「多種あるミシン全ての特徴を知らないとできない仕事。あちこちで怒られたが、勉強になった」と振り返る。ミシンが昔ほど売れなくなっても商売を続けてこられたのは、修理の腕があってこそだ。
「街のミシン屋さん」として多くの人に親しまれ、今では客から「修理する所がなくなると困る。いつまでも元気でね」と声をかけられることが多くなったと笑う。
物を大切にする文化も残したい
英子さんは、昭和の時代、店の奥で毛糸の編み機を使った編み物の教室を開きにぎわった。編み物をする人が少なくなってからは、日本各地の貴重な織物を集めて洋服の仕立てなどをするようになった。「ここにある古い着物をほどいた生地は、二度と手に入らないほどの各地の貴重な織物。大切にしている」と話す。二人とも日本の古い伝統工芸が好きで、店には集めた物を飾っている。浩盟さんは「物を大切にする文化も残したい」と話す。
親しまれ変わる中町見守って
「蔵のある街」として、インバウンドの外国人にも人気の観光名所になっている中町だが、昭和の時代は、商店を営む人たちの生活の場だった。1950~70年代の高度経済成長期には、「雨にぬれない、車が来ない、夜明るい」と他の商店街がこぞってアーケードを作り、軒が邪魔になるからと蔵を壊した。流れに乗り遅れた中町には蔵が残され、結果として今の発展につながっている面があるという。
昔のように暮らしながら商売をしている店は、数えるほどしかない。テナントが多くなり「寂しい」と英子さん。「その中でも、中町の一員として活動してくれている人たちがいるのは心強い」と、変わる中町を見守っている。