【闘いの、記憶】通算43回優勝の競輪選手 斉藤克宜さん(65、松本市出身)

〝一番強いやつ〟倒すしか…

「トップ同士、命懸けのレースを体験できたことは人生の財産」。現役時に最高クラスのS級1班まで上り詰め、通算43回の優勝を果たした元選手はそう語る。「後進県」の出身者として孤軍奮闘したその「闘いの記憶」は、「名前を売るため、一番強いやつと勝負する」という自身のスタイルを確立した一戦だ。
1982年、デビューして3年目。この時斉藤はすでに、約4400人の競輪選手のうち当時最上位120人のA級1班(翌年に制度改変でS級が最上位に)にいた。
この年の初頭、立川競輪場(東京)で、当時「日本一のマーク屋」の異名を取った松村信定(70、36期・高知)と同組のレースが組まれた。マークは先行型の選手の後ろ(番手)で風をよけて脚力を温存し、最後にかわす戦法。より力がある先行選手の番手を取れるかが、勝負の鍵を握る。
ファンが車券を購入する上で、レース展開は重要な判断材料だ。このレースは松村が、最有力の先行選手の番手を取るというのが大方の見方だったが、前日の専門紙の取材に斉藤は「松村さんと勝負します」と宣言。松村の“指定席”を取りにいくと、けんかを売ったのだ。
「今もそうだが、実力差が歴然の選手に、あえて勝負を挑む者はそうはいない。ファンはそれも加味して予想する。記者もあぜんとしていた」
当日の新聞には「斉藤、松村と勝負」と出た。ピストルが鳴り、宣言通り松村に仕掛けた。体をぶつけ合う、ばちばちの争い。二人の自転車は左右に大きく振れ、空気の抵抗を大きく受けても、互いの意地と意地とをぶつけ合う。
結末は?斉藤は番手争いには勝ったが、競り合いで体力を奪われ2着。松村は3着だった。そしてこのレースを機に、周りの選手の斉藤を見る目が確実に変わった。「あいつはやばいぞ」と。
事前に勝負すると言ってしなければ「臆病者」となめられ、勝負しないと言って仕掛ければ「ひきょう者」と指をさされる。いずれにせよ「勝負に負ければ名前は売れない」。
競輪は同郷や隣県出身の選手が連携し、レースを優位に運ぼうとする。同県出身者がほぼ皆無の長野の選手はそれができず、どこの競輪場に行ってもアウェー状態の一匹おおかみ。「一番強いやつを一人一人、自力で倒すしか生き残る道はなかった」と斉藤。このスタイルで「命の削り合い」と言われる世界で25年間生き抜いた。

2004年に現役を引退。生涯獲得賞金は5億円を超えたが、その後の事業の失敗などもあり全てなくなった。今はファストフード店で、40歳以上も年下の学生らに交じってアルバイトをし、生計を立てている。
年間数千万円を稼いだ現役時代と、現在の生活とのギャップは耐え難いものに見えるが、かつての勝負師は「現役時も、引退して事業をした時も、そして今も、なんの後悔もなく楽しい」とさらり。自分に正直に、常に本気で生きている人の言葉が、どこかうらやましい。<文中敬称略>

【さいとう・かつのり】 1959年生まれ。松商学園高で自転車競技部に所属し、2年時に全国総体1000メートルタイムトライアル5位(同種目での県勢初入賞)。卒業後に日本競輪学校(現日本競輪選手養成所)に入校(43期)し、79年デビュー。総出走2026回で1着368回、高松宮記念杯などGⅠ競争に73回出走。松本市城西在住。