ワンスモア浅間温泉

【いしかわ・ひろゆき】40歳、千葉県茂原市出身。信州大工学部社会開発工学科建築コース卒。松本市役所勤務を経て、2019年(令和1年11月1日)、合同会社SumSumポルトマツモト代表社員就任。
合同会社「Sum Sum ポルトマツモト」
松本市浅間温泉3-30-13 E-mail:sumsum.llc@gmail.com
―他の星に来たのかも
千葉県茂原市で生まれ育ち、地元の高校で山岳部に入部し、夏に信州を訪れ、北アルプス縦走などをやりました。山の世界は千葉とは違い、他の星に来たような感覚でした。信州に魅力を感じ、信州大工学部へ進学しました。
―学生時代の浅間温泉
入学1年目の2004年は、一般教養科目が中心で、松本キャンパスに通いました。自分は松本市横田に住んでいましたが、浅間温泉にも大勢の信大生が住んでいました。たくさんの友人や先輩が安価なアパートに住んで、数軒あった学生向けの格安食堂などを大いに利用しました。
温泉街では風呂のないアパートがほとんどで、「湯仲間」といって月極で入れる共同風呂がたくさんありました。今もありますが、当時は外部でも入浴できる所があって、一緒に入れてもらったこともあります。温泉街と学生居住区が一体だった最後の世代だったのかもしれません。部活では、浅間温泉松明祭りを手伝う伝統がありました。自転車部が、第一町会の松明の製作から引いて運ぶまでをお手伝いしていました。
工学部だったので2年から長野市に移りました。卒業してまた松本に戻った時、学生の住居トレンドが激変していたことに驚きました。わずか3年ほどの間に、大学付近の鉄筋アパートやハイツに入居する学生が増加、浅間温泉に住む学生は少数派となっていました。
同時に、老舗旅館や大型ホテルが閉館し、繫栄した温泉街の景色もなくなっていました。
―ゲストハウスキックオフ
卒業後は、松本市役所に建築職で勤めました。今の仕事に役立つ多くのことを学びましたが、業界の渦に巻き込まれ、苦しんだこともありました。
市の仕事を続ける中で、13年に大学の後輩が、宿をやってみたいという話がありました。北深志でゲストハウスを始めたのです。私もボランティアの立場で発起人となり、設立の企画や手続きを手伝いました。現在の仕事へと至るキックオフだったと思います。
―篶竹荘
2年近くゲストハウスの運営に携わってみて、県内に移住先を探しに来る利用客が大勢いることが分かりました。国内にシェアハウスが増え始めた頃だったので、松本でも需要があると考え、インターネットで検索したところ、現在の浅間温泉3丁目に築80年の篶竹荘を見つけました。
建築学を学んだことや、仲間と過ごした楽しい思い出の影響だと思うのですが、自分は歴史的価値のある古民家より、庶民的な昭和の木造建築に興味があります。戦後に造られた木造の〝ボロアパート〟を見ると、非常に魅力を感じます。
篶竹荘を購入し、シェアハウスとして修繕、準備していきました。
―芸妓置屋だった家屋
篶竹荘は、お金の持ち出しも結構して修繕も大変でした。でも、それ以上に浅間温泉の街づくりをもっとやってみたいと感じ、市役所を退職。19年に合同会社SumSumポルトマツモトを立ち上げました。ポルトは港という意味で、浅間温泉が移住者の入り口になれたらと考え名付けました。立ち上げて間もない頃、下宿業が順調だったわけではないのですが、近所に売り物件が出ていたので再び購入しました。
「分音和」という屋号で1960(昭和35)年に建てられた、芸妓さんの置屋だった木造家屋です。芸妓さんで栄えた温泉街の名残がまだあったのでしょう。さび付いていましたが、芸妓さんの名前を数人列記した表札が、今も残っています。
純和風建築で、全部屋が障子で仕切られていました。現在は女性専用シェアハウスとし、第2ペンギン荘と名付けて運営しています。
―浅三荘の創業計画
学び直す感覚で22年、松本商工会議所の創業スクールに通いました。中小企業診断士のセミナーを約40時間受け、最後に新規の創業計画をプレゼン(提案)します。以前から良いなと思っていた近所の木造賃貸アパート物件があって、そこを修繕していく、架空のプランを作りました。
改めて、資料や文章を作成することは得意だけれど、人前でプレゼンすることや発信するのは苦手であり、自分の課題だということも、再認識できました。
22年11月に受講を終了し、23年になった頃、実際に物件オーナーを紹介してもらい、本当に譲ってもらう話になりました。前オーナーは、築50年以上の木造建物なので経年劣化がひどく、今後どうするかとても困っていたようです。
浅三荘という名前でしたが、23年12月に購入、屋号も残し継承しました。2階をシェアハウスにし、1階を食堂やテナントなどにしていく計画で、約1年間かけ自分で修繕し、住居契約や賃貸契約が可能な段階までこぎ着けました。
篶竹荘とペンギン荘の運営ではできなかった要素を詰め込んでみたいです。
―変化しつつある浅間温泉
生まれ故郷よりも、松本に住んでいる時間の方が長くなりました。
学生時代の思い出から、自分の心の中に浅間温泉への望郷感のようなものがあるのかもしれません。「ワンスモア浅間温泉」の思いがあります。
近年、旅館などが新装や改築されたことが多くあり、客層にも変化を与えていると感じます。街を旅行客が歩いたり、自分たちのような地域住民や学生もいたり、さまざまなレイヤー(層)ができ、複合的な浅間温泉2・0になってほしいと感じている。だから「ワンスモア浅間温泉」として、篶竹荘と第2ペンギン荘、浅三荘をベースにこれから独自の文化を構築し、街を守っていきたいです。
(聞き書き・田中信太郎)
