【闘いの、記憶】北京五輪陸上男子400メートルリレー銀メダリスト 塚原直貴さん(39、岡谷市出身)

人生で初めて心血を注いで

陸上の花形、男子100メートル。この種目で県勢で初めて、2008年北京五輪に出場して準決勝まで進み、400メートルリレーでは第1走者として銀メダルを獲得したスプリンターは中高生時代、松本市の信州スカイパーク陸上競技場で100メートルの県中学新や200メートルの県高校新を記録し、「日本のエース」へと駆け上がった。今もって「信州最強の韋駄天(いだてん)」といえる塚原の「闘いの記憶」は、五輪代表に選ばれるまでの道のりだ。
08年6月29日。五輪代表選考会を兼ねた日本選手権。会場の川崎市等々力陸上競技場は雨だった。100メートル準決勝をトップで通過した塚原は、決勝は得意のスタートが決まらなかったが、中盤以降に加速して10秒31で3連覇を達成。すでに五輪参加標準記録Aを突破しており、初の代表に決まった。
戦前の予想は、このレースで2着になった当時36歳のベテラン朝原宣治(大阪ガス)との一騎打ちだったが、塚原は「朝原さんに対する気持ちより、確実に勝つことだけを考えた。代表に決まってうれしいというより、安堵(あんど)した」という。

そう語るのには訳がある。前年に東海大4年だった塚原は、大阪で行われた世界選手権100メートルで自己記録を更新し、400メートルリレーは5位入賞。迎えた五輪イヤー。周囲の期待も高まる中、代表選考会やその先の本番に向け、本格的な練習に入った4月、左足アキレス腱(けん)を傷めた。初めて経験する大けがだった。
治療しながらのトレーニングは一進一退。社会人1年目のプレッシャーもあり、けがをしてから選考会までの約3カ月は「本当に苦しかった。人生で初めて、心血を注いで準備した」。日本選手権当日の天気予報は雨で、ウオーミングアップ用のシューズとスパイク3足ずつと、同じ枚数のユニホームを用意し、気持ちを落ち着かせた。
万全でない状態で迎えた本番。「雨が好きな選手はまずいない。他の選手のモチベーションが下がっても『自分は動じない』と、最後まで自分を信じることができた」と、23歳の自身を振り返る。

北京五輪の翌09年は「勝負の年。100メートル9秒台」の目標を掲げ、日本選手権の予選で当時の日本歴代4位となる10秒09をマーク。9秒台突入の感覚をつかみつつあったが、けがの代償は大きく、今度は右アキレス腱(けん)に違和感を感じ始めた。「その後はいまいましい思い出ばかり。足場を外される感覚があった」と口をつぐむ。
輝きを取り戻そうとけがと闘ったが、次のロンドン五輪出場も日本人初の9秒台も果たせず、16年にスパイクを脱いだ。現在は全国各地の陸上教室や講演会などで自身の経験や教訓を伝えるほか、21年東京五輪400メートルリレーメンバーで松本市出身のデーデー・ブルーノ(25、セイコーホールディングス)の専任コーチを務めている。
「これからも100メートルの究極の動きを追い求め、具現化したい。デーデーが、その映し鏡になってくれれば」と、同郷の後輩に自身の夢を託す。<文中敬称略>

【つかはら・なおき】1985年、岡谷市生まれ。東海大三高(現東海大諏訪高)3年時の全国高校総体で100メートルと200メートルの短距離2冠。東海大卒業後に富士通に入社し、日本選手権100メートル3連覇(2006~08年)。21年に富士通を退社し、現在はスポーツイベントの企画運営などをする会社「ザ・ファースト」(東京)所属。佐久市在住。