【闘いの、記憶】アトランタ五輪MTB女子クロスカントリー代表 小林可奈子さん(54、安曇野市穂高)

屈辱がもたらした返り咲き

1996年アトランタ五輪から正式種目になったマウンテンバイク(MTB)クロスカントリー。この種目女子の初代代表として、新たな歴史を刻んだ先駆者の「闘いの記憶」は、40代後半で「選手としての2度目のピーク」を迎えるきっかけとなった、自身より一回り以上若い選手に敗れたレースだ。

アトランタ五輪は29人中23位。2000年シドニー五輪は代表を逃し、01年と04年に出産。育児期間を経て07年、MTBの普及などを目的に、自身のチーム「MTBクラブ安曇野」を設立した。
そこで指導する子どもたちから、「可奈子さんが走っている姿が見たい」とせがまれ、徐々にレースに復帰した。とはいえ、アトランタ五輪を選手として一つのピークと捉えれば、10年以上が過ぎ母親にもなっていた。競技へのモチベーションも、五輪や世界選手権を目指した頃とは比べものにならないと、誰もが思ったはずだ。
16年5月。富士見パノラマリゾート(富士見町)で行われた国内シリーズ戦。最上位のエリートクラスに出場した46歳の小林は、突如上り坂で後ろから来た選手に抜かれた。それも直線的に一気に。「衝撃的だった」
追い抜いたのは、当時33歳の末政実緒。五輪種目にないMTBダウンヒルの国内第一人者で、全日本選手権はこの年まで17連覇。04年世界選手権2位でMTBで日本人初のメダルを獲得した選手で、クロスカントリーにも数年前から参戦していた。
レースは末政が制し、小林は3位。小林が自身に憤ったのは順位より、抜かれた相手とその抜かれ方だった。「ダウンヒルは下りしかない競技なのに、彼女に上りで、しかも見たことがないやり方で抜かれた。クロカン選手としてのプライドを踏みにじられた」と、今でも悔しがるほどだ。
「『この野郎!引きずり降ろしてやる』と初めて思った。人間の一番強いエネルギーって『五輪に出たい』とか『ああいう選手になりたい』とかじゃなく、人に対する復(ふく)讐(しゅう)にも似た気持ちだと分かった」
翌年、小林は全日本選手権で18年ぶり3度目の優勝を果たし、国内トップに返り咲いた。「あの時彼女に抜かれなかったら、優勝できなかった。人は人によってしか変われない」としみじみ語る。

趣味でツーリングを始め、青山学院大2年時にMTBと出合い、在学中に競技を始めた。卒業後に都内の企業に就職したが、「そこで年を取っていくイメージが湧かなかった」。アトランタ五輪でMTBの女子クロスカントリーが正式採用されると知り、「私、五輪に出るので辞めます」と会社に申し出た。94年、練習環境を求めて松本市に移住した。
現在は、22年に安曇野市が同市堀金烏川に整備したMTBコースの指定管理者・一般社団法人MSJ(マウンテン・スポーツ・ジャパン)の代表理事として、競技の普及に力を注ぐ。
「次の世代にMTBというスポーツのバトンを引き継ぐことが、オリンピアンである私の使命」。今見せるのは、柔和な笑顔だ。<文中敬称略>

【こばやし・かなこ】 1970年生まれ。埼玉県出身。旧姓谷川。青山学院大2年のときにMTBを始める。94年に全日本選手権初優勝、世界選手権初出場。99年、全日本選手権で2度目の優勝。出産を機にいったん競技の一線を退くが2013年、レースに本格復帰。22年に一般社団法人MSJを設立し代表理事就任。