
全て出し切った37歳の夏
3大会連続でパラリンピックに出場した、国内車いす陸上の先駆けとなったアスリート。全盛期は安曇野市を活動拠点にしていた。その「闘いの記憶」は2016年9月13日のリオデジャネイロパラリンピック1500メートル決勝。約20年間の現役生活にピリオドを打った今も「全てを出し切ったレース」と、誇らしげに振り返る。
パラリンピックに初出場した12年のロンドン大会は、マラソン(T54クラス=両上肢と体幹の機能が正常またはほぼ正常=以下同)13位。日本ではマラソンは陸上の人気種目で車いすの大会も多く、マラソンから取り組むのは自然な流れだった。
しかし、世界にマラソン専門の選手はほとんどいない。トラック種目でスプリント力を付け、それをマラソンに生かすのが主流だ。「マラソンを続けても世界では通用しない。日本の車いす陸上全体を考えても、短い距離から積み上げないと勝負にならない」と痛感し、トラックで世界を目指すことにした。
ロンドン大会後は練習方法や器具も変え、ひたすらスプリント力の強化に力を入れた。成果は顕著で13年の世界選手権(フランス・リオン)で5000メートル銀メダル、1500メートルは日本人初の銅メダルを獲得した。
「年齢的にもピーク」と覚悟して臨んだリオデジャネイロ大会は3種目に出場。5000メートルで日本人過去最高の4位に入賞し、1500メートルは日本人初の決勝(10人)に進出。居並ぶメダリストらと同じスタートラインに着いた。
5000メートルは序盤は後方で待機し、最後に追い上げる戦法でメダルに届かなかったため、1500メートルは果敢に攻めて2周目で先頭に立った。後続を引き離し、「後ろがごちゃついているのが分かった」と、自分がレースの主導権を握ったと確信した。
3周目に入って全体のペースが上がり、最後は8位に沈んだが、「自分がやりたいレースができた。満足感はそれまでで一番だった」と樋口。「やり切った。燃え尽きた」という感情さえ生まれたという。37歳だった。
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「安曇野に移住しなければ、ここまでの選手になれたかどうか」と口にするのは、関係者への感謝から。車いす陸上に本格的に取り組んだのが04年。練習法など全てが自己流だったが、09年に同市の「トレーニングジムZERO(ゼロ)」オーナーの丸山主税(ちから)さんと出会い「激変した」。
理にかないストレスがない体の使い方を教わったほか、まひした下半身も鍛えるよう助言された。同年の長野車いすマラソン(ハーフ)で初優勝したのを皮切りに、昨年5月の世界選手権(神戸)までトップレベルを維持できたのは、丸山さんらの教えに負うところが大きいという。
現在は日本パラ陸上競技連盟の強化スタッフとして、後進の指導に当たる。「現役生活に後悔は全くない」とし、「障がい者のスポーツは健常者のそれと比べ、社会進出の手段としてや病気に強い体づくりのためなど、やる意味が格段に違う。そのことも伝えていきたい」。世界と戦ってきた経験を、普及や啓発にも生かすつもりだ。<文中敬称略>
【ひぐち・まさゆき】 1979年、新潟県十日町市生まれ。飯山市で働いていた2003年、バイク事故で脊髄を損傷し24歳で車いす生活に。リハビリの過程で車いす陸上を始め、10年9月に安曇野市に移住し、16年まで在住。21年東京パラリンピックは5000メートル8位入賞。長野車いすマラソンは09~24年に優勝10回。プーマジャパン所属。千葉県柏市在住。