【創刊30周年特集】創刊の頃に載った人を訪ねて

イベントの担い手や企業人、教育などさまざまな分野で活動する人にインタビューした「もっと松本」、若い夫婦になれ初めなどを尋ねる「あつあつカップル」、単身の男性社員に暮らしぶりを聞く「松チョン」…。「まつもとタウン情報」創刊時は、さまざまな切り口で「人」を紹介する記事が並んだ。あれから30年。掲載された人たちを訪ね、当時のことやその後の歩みなどを聞いた。

6月8日付「松本ひと模様」 「喜源治の家」主宰小松弓子さん(76、松本市中山)

創刊2号目、「松本ひと模様」の初回に登場した当時の記事を眺め、「この着物もびょうぶも、今でもあるわよ」。古き良きものを大切に使い、恵まれた自然と人と関わりながら、今も丁寧に暮らしている。
太い梁(はり)やいろりがある広い部屋が懐かしい本棟造りの古民家は、180年ほど前に建てられたという。傾きかけていた古い家を修繕し、文化拠点として開放する道を選んだのが35年前。以降はコンサートや文化祭を自ら開き、ギャラリーとしても人々が集う場になった。
商売ではないから、お金はもらわない。だから、やりたいことに貪欲に取り組んだ。25年前に山を切り開き、50人の仲間とれんがを積み上げ1年かけて窯場を作り、作陶に熱中した。その後、地域課題でもある竹林の荒廃が気になり、竹炭を焼き始めた。
当時は理解されなかった自然農法も、今では若手を中心に仲間ができ、畑を貸す。子ども向け野外活動にも所有地を開放する。囲む人の輪は、顔ぶれを変えながらも脈々と続く。
30年前に語った夢は「ここでブーニンのコンサートを開く」「小沢征爾さんに自分のそばを食べてもらう」だった。「それは無理だったけど、ブーニンさんには自分が草木染めしたニットを着てもらい、写真ももらった」とか。
この間、夫と長男を見送る悲しみもあったが、それでも走り続けた。「昔も今も同じことをやっている?でも同じことをやれて幸せ」なのだと。求めよさらば与えられん─。その言葉がぴったりだと思った。

9月12日付「松本ひと模様」書家 大澤逸山さん(66、松本市岡田松岡)

「松本ひと模様」に掲載されたのは、創刊から3カ月後の43号。書家になった経緯などを尋ねられ、体育の教師になりたかったが、入った大学が書道で有名だったことからその道に進んだこと、胸に焼き付いた「書を続ける環境を持ち続ける人間が才能があると言えよう」という師の言葉などを語っている。
30年たった今、「最後はやっぱり人。人との縁やつながりで生かされていると感じる」と振り返る。
松本で生まれ育ち、大学を卒業後、地元の高校に教諭として勤める傍ら、書家として活動。2007年から24年3月まで松本蟻ケ崎高校で書道部の顧問を務めた。同部は19年の「書道パフォーマンス甲子園」で初優勝し、記録に残る3連覇を達成した。
書家として現代的なパフォーマンスには反対だったが、3年生女子部員の「最後の文化祭でやってみたい」という訴えを聞き入れ、県内初の活動に踏み切った。当初は「遊びじゃないか」と批判も少なくなかったという。
しかし、「地域に笑顔と元気を」をテーマにパフォーマンスする高校生のひたむきな姿や、迫力ある演出を見た人たちは応援してくれた。注目を集める一方で、自身は部員らに基礎となる伝統的な書を教えることも怠らなかった。
一生懸命やっていると応援してもらえる、元気をあげたいという思いで活動すると、逆に元気をもらえる─。「自分も書を通して出会った多くの人に支えられ、生きている─。現在は同部の外部顧問を務めるほか、紙面に登場した翌年に発足させた書道研究会「里仁(りじん)会」で市民を教える。

※創刊時から毎火曜1面に掲載された「松本ひと模様」は、地域の風土を醸す“市井の文化人”を、俳人の佐藤文子さんによるインタビュー記事で紹介した。

7月25日付「私の美術館こだわりの一点」洋画家 有賀由延さん(78、松本市庄内1)

地元の芸術家の自身いち推しの作品を紹介し、制作の意図や工夫、作家としての歩みなどを語ってもらった「私の美術館こだわりの一点」。掲載された「年輪D─5」は、1983(昭和58)年に国展(東京・国画会主催美術展)で国画賞を受賞した作品だった。
シンメトリーな抽象画は自作の中で「平面的な表現から、グラデーションを用いた立体的な表現へと移行していく過程での、重要な一点」という。マスキングテープを使う独自の技法で、グラデーションを美しく表現。木の年輪だけでなく、積み重なり固まっていく人生─など、さまざまなストーリー性を持たせた。
取材を受けたのは、松本市職員を辞め画業に専念して数年後。当時は画家であることを公言しておらず、紙面を見た周りの人たちに「絵を描くんだね」と驚かれたという。
この頃始めた、自身のアトリエ(松本市内田)で教える「絵画教室ARUGA」は今も続き、現在は50~90代の14人が通う。半数以上が80代だ。
当時は国画会や地元の美術団体に所属したが、次第に役員を任されることが多くなり、「絵と関係ないことが増え、知らないうちに絵描きではなくなってしまう」と、その後にすべて退会した。
制作の原点は「感動」だ。抽象画は生き方などを描き、具象画は「いいな」「おいしそう」など感じたことに近づけていく。「絵は『呼吸』のようなもの。特別ではなく、普段着のような表現ができたらいい。どうしても見えが出ちゃうんだけどね」と笑う。

7月6日付「Yチャレンジ」 バレエスタジオ・フェッテ主宰 宮内斐とみさん(51、松本市城山)

さまざまなことに挑戦する若者を紹介した「Yチャレンジ」。30年前の自身の記事を見ながら、「実はこの頃、自分のバレエに絶望していた」と明かした。
3歳から松本市内の教室で始め、松商学園高校時代は都内の教室にも通った。卒業後、都内の専門学校に進み、2年生の時にロシア国立ワガノワ・バレエ・アカデミーの留学生に選抜された。「当時からロシアバレエが一番きれいだと思い、憧れがあった」。留学に心が弾んだが、現実は…。
当時は日本人の留学生が珍しかった時代。本場のバレリーナたちを目の当たりにし、「顔の美しさやスタイルの良さ、技術の高さなど、全てが自分とは格段の差。その人たちと踊るのが、たまらなく恥ずかしかった」。
10カ月間の留学を終え、アカデミーから2年の延長を打診されたが、絶望した心は癒えず、故郷に戻った。弱冠20歳。取材はその直後で、「将来はバレエ団に入るという気持ちはあまりないが…」と、プロになるのを諦めるような発言をしている。
あれから30年。この間2年ほどプロダンサーとして活動した時期もあり、長野冬季五輪の開会式にも出演した。指導者としてもバレエの指導法の一つ「ワガノワ・メソッド」の教授法ディプロマを、日本人としていち早く取得。30代半ばで教室を開いた。
自身の初期の教え子の中からプロも輩出し、「いろいろな経験を子どもたちに伝える上でも、ロシア留学は役立った。あの時は挫折したけど、やっぱりバレエが好きだったんです」。笑顔は穏やかだ。