「松本平タウン情報」と同じ、1995年に創業した松本市内の3社、1院に30年の歩みを振り返ってもらった。

ディーシェイプ(松本市平田西1)
「エアライズ」の社名で創業。地元楽器製造メーカーの、OEM(相手先ブランドによる生産)などを手がける家具部門で働いていた中田朝友さん(現会長)が独立した。木材と塗装には絶対的な強みを持つ。
専門は、「D-Style」のブランド名で展開する、業務用の作り付け家具やオーダーキッチンなどの設計・施工。ホテルなどからも依頼があり、求められるデザインや品質、機能などのレベルは高いが、蓄積したアイデアと経験値を生かし、実際に製品を作る協力業者の力を借りながら、要望に応えている。
1999年に社名を「スペースウェアハウス」に。2003年、2代目の望月彰社長の時代に住宅事業に進出。安曇野市穂高に分譲地「グリーンガーデン」を3期に分け造成した。現在は新築住宅事業からは撤退したが、個人住宅や店舗・工場などの建築リフォームは、事業の2本柱の一つになっている。
3代目の小島正則社長は業務用家具の営業マンから転職し、11年入社、16年に社長に就任した。
コロナ禍の後は、インバウンドや富裕層向けの別荘やホテルの家具の需要が堅調で、単価の高い仕事を受注。着実に信頼を得て、業績を右肩上がりに伸ばしている。
1日に社名を現名に変更したばかり。ディー(D)には、絶対的に自信を持つ「デザイン」や、将来への「ドリーム」などの意味を込め、さらなる飛躍を願う。

フロンティア・スピリット(松本市和田)
産業廃棄物を扱うエキスパートだ。建物の解体工事から、がれきやごみの収集・運搬、中間処理や再資源化、そして最終処分。さらには跡地の整地や土壌改善も手がける。
創業者は、横澤英樹社長の父、三郎さん。「挑戦」の思いが社名に込められたという。
1990年代、産廃処理へのニーズは高まっていた。廃棄物処理法は2度改正、新たに環境基本法ができた。個人の野焼き、埋設などに規制がかかり、業者の出番が増えた。
同社にとっての画期は98年、ダイオキシン対策を強化した中南信最大規模の焼却炉の建設だった。実は金融機関からは「そんな大きなものを」と危ぶむ声もあったというが、焼却炉メーカーの後押しもあり造った。2000年、ダイオキシン類対策特別措置法が施行。時代の波に乗った。
21世紀に入ると、「環境」を前面に出す。01年、環境管理の国際規格ISO14001を取得。03年には周辺地域で年2回行うごみ拾い活動を始めた。社内でも、福利厚生など働く環境の整備に力を入れている。21年、県SDGs推進企業に登録した。
今後に向け、「夢物語とも言われるが」と大澤正康専務(55)が目を輝かすのは、焼却炉から出る熱を利用して発電したり、廃棄物を再生燃料にしたりする計画。農業施設に供給し、災害時には避難所で使えるようにもしたいという。「松本平がより活性化していけばいい」。産廃分野からフロンティア(新領域)を広げていく。

ペインオフィスカスガ山村院(松本市島内)
サッカーJリーグのジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)でトレーナーをしていた山村浩さんが1995年8月、「山村整骨院」として開業した。当時27歳。Jリーグ発足前年の、92年にジェフに入り、黎明(れいめい)期のチームを支えたが、元々、地元での開業を志していたことから古里松本市に帰郷した。
30年の歩みの中で、最大の転機は開院から10年後の「春日TT|AH施術手法」との出合いだった。
臨床を重ねるたびに「急性のけがしか適応できない保険診療の仕組みでは、慢性痛に悩む人に十分な対応ができない」という悩みを増した山村さん。
筋機能を回復することで痛みを解消する同手法の理論と技術に強く共感し、学びを深めると、7年後の2012年、これまで実施していた保険診療から自費診療となる同手法へと切り替えた。
「患者さんが離れ、経営が立ちゆかなくなるのでは。家族は守れるのか」。不安に押しつぶされそうになりながらも決断したのは、「慢性痛に悩む人の力になりたい」一心からだった。
「鳥居火」で知られる鳥居山に何度も登り、そこから松本平を一望しては、「『自分の悩みなど小さい』と言い聞かせていた」と、現在の院名に変えて新たな船出をした当時を振り返る。
「健康寿命延伸に貢献することが使命」と山村さん。「まずは自分が健康でなければ」と、食事に気を配り、毎朝のトレーニングを欠かさない。

サーキットあづみ野(松本市岡田松岡)
「本格的なカート用のサーキットを造りたい」。そんな夢を追って現会長の寺島正俊さん(76)が設立した。この30年で息子が後継者となり、本紙5日付1面で紹介した孫が「プロレーシングドライバー」というさらに大きな夢を追って奮闘している。
寺島さんは20代半ば頃、当時、国内に入り始めたばかりの「レーシングカート」に夢中になり、県外のほか、県内で唯一、伊那市にあったサーキットなどで走りを楽しんだ。その伊那市のサーキットが閉場することに。「だったら今度は、中信地方に自分たちで造ろう」と、寺島さんを含む3人で「てこす」を設立し、動き出した。
しかし、現実は厳しかった。まず土地探し。「サーキットになりそうな山林はくまなく巡った」。候補地が見つかっても、近隣住民などの理解を得るためには「騒音」という問題があった。関係者らを全国のサーキットに連れて行き、理解を求めたこともあった。
こうした努力が実り、会社設立から2年後の1997年に池田町広津に「サーキットあづみ野」を開場した。2005年に社名も変更。07年に安曇野市豊科南穂高に「あづみ野F|1パーク」を開き、17年に次男の卓さん(51)が社長就任した。
寺島さんは「当時は冒険だった」と振り返り、現在、孫の知毅さん(17)がプロレーサーを目指していることについて、「人前では『うれしい』と言っているが、内心はとても心配なんです」。