
「振ればヒット」の1カ月
俊足と強肩を見込まれてプロ野球入りしたが、6年間の現役生活でヒット1本に終わった元選手。その「闘いの記憶」は、くしくも「振ればヒット」と表現するほど絶好調だった5年目の1カ月間。1軍初昇格をつかんだ時期だ。
2014年ドラフトでDeNAから6位指名を受け、松本第一高出身で初のプロ選手に。走っては50メートル5秒9、遠投は100メートルだが、打撃は武器とは言えなかった。入団が決まると周囲の注目も高まり「プロが投げる球は違う」「金属バットの打ち方は、木製では通用しない」など、さまざまな“アドバイス”が耳に入り、意識もした。
3人兄弟の末っ子。左打ちは中学3年の時、二つ年上の次兄で高校球児だった光輝さんの「右で打てなきゃ左で打ってみろ」の一言で取り組み始めたとあって、経験も浅い。
ルーキーイヤーは2軍でキャンプを終え、イースタン・リーグの公式戦に出場したが、20打席以上安打が出なかった。打席での歩幅や顔の向き、バットを構えた時のグリップの位置など、打席を重ねるに連れて気になることが増え、「自分がどう打っていたか、分からなくなった」。
さらに追い打ちをかけたのが「フォークボール」の威力だった。高校生でも投げる投手はいたが、自身にとってそれほど厄介な球種ではなかった。が、プロの投手が投げるそれは「打つ瞬間に消えた」。力のあるストレートで追い込まれ、フォークで仕留められるパターン。「フォークが来たら終わり」と消極的になった。
入団から4年間、2軍公式戦の打率はずっと1割台。三塁側ベンチに向かって打つイメージでボールを引きつけたり、右打ちに戻そうと考えたりと試行錯誤したが、しっくりくる打撃フォームを固めることができなかった。
ところがプロ5年目の19年7月。それまでの低迷がうそのように安打が続いた。同月の月間打率は3割9分と、2軍戦とはいえ驚異的な数字をたたき出した。1軍に呼ばれ、同月31日に横浜スタジアムで行われたヤクルト戦の7回、代打でプロ初打席へ。マウンドには梅野雄吾(現中日)。2ストライクと追い込まれ、高めからストライクゾーンに甘く入ったフォークを見逃し三振。手が出なかった。
その年の1軍出場はこの打席だけ。翌年はオープン戦まで1軍に帯同したが、開幕は2軍。9月に1軍に昇格し、プロ初安打初打点も挙げたが、シーズン終了後に戦力外通告を受けて引退した。
「振ればヒット」の1カ月は何だったのか─。「がむしゃらに、何も考えずバットを振り、トレーニングもしていた高校時代と同じ感覚だった気がする」と百瀬。
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引退後は2年間、球団職員として働き、郷里に戻って今春、家業の沢村自動車整備工場(松本市蟻ケ崎6)に入った。同時に光輝さんが所属する社会人軟式チームにも入ったが、「(硬式と)勝手が違い、また打てない。悩んでますよ」と笑顔。新たな道を歩み始めたルーキーの打撃不振は、今度は深刻ではなさそうだ。<文中敬称略>
【ももせ・ひろき】1997年、松本市生まれ。開智小4年時に軟式チーム「蟻西ファイターズ」で野球を始める。旭町中で野球部に所属し、主に捕手。松本第一高で内野手に転向し、2年秋から遊撃手としてレギュラー定着。3年夏の県大会は8強。プロ1軍の通算成績は出場5試合5打数1安打1打点。同市沢村在住。