【闘いの、記憶】元松本山雅FC選手 今井昌太さん(41、上松町出身)

ダービー「絶対に負けてはいけない」

J3松本山雅FCが社会人の北信越リーグ1部に所属していた2007年、県出身の期待を背負って入団し、スピードに乗ったドリブルでJリーグを目指す戦いに名前を刻んだMF。その「闘いの記憶」は、同年に初めて経験したAC長野パルセイロとの「信州ダービー」、そしてJ2入りを果たした12年に、Jリーガーとしてピッチに立った2試合という。
07年北信越リーグ1部4節。信州ダービーが行われた松本市のアルウィン(現サンプロアルウィン)には、公式記録で6399人という、地域リーグでは考えられない数の観客が集まった。
その前年、大学4年の今井の元には、J2のクラブから入団のオファーが届いていた。しかし、最後の試合で膝の靱帯(じんたい)を損傷し、プロ入りは白紙に。「サッカーを諦めるか」とも考えたが、Jを目指す山雅を地元の知り合いに紹介され、自身もそこからプロを目指すことにした。
0‐1で敗れたその試合の内容は、ほとんど覚えていない。が、「ダービーは絶対に負けてはいけない」と心に刻んだという。「あの時感じたサポーターの熱量。あれが、その後に躍進した山雅のスタート地点だったと思う」
当時はベンチ外の選手たちが試合前にサッカー教室を開き、終了後のサイン会などでは、子どもたちが長蛇の列をつくった。「レギュラーだけでなく、全ての選手にファンがいた。そのファンが、選手をヒーローにしてくれた」。今も「山雅ファミリー」と言われる、サポーターとの関係性の原点と言う。

山雅がJリーグにたどり着き、ようやくプロになったのは27歳。チーム最長となる在籍6年目だった。「自分のサッカー感とかが成熟してきた頃。どうしてもソリさん(反町康治監督)のサッカーを受け入れることができなかった」
キャンプイン後に体調を崩したのも影響し、約半年間は「(監督に)全く相手にしてもらえなかった」。試合にも出られず、クラブに移籍を願い出た。が、そこで思った。「このまま去ったら負け犬。一度、ソリさんの言うことを全部聞いてやってみよう」
シーズンも半ばを過ぎた7月22日夜、アルウィンでのファジアーノ岡山との試合で、後半42分からピッチへ。J入りまでの苦闘を共にしたサポーターは、万感の思いを込めて今井のチャントを歌い続けた。翌月に期限付き移籍したJFLのブラウブリッツ秋田では、シーズン残りの全11試合に出場。「走力が格段に上がり、頭を使ったサッカーができるようになった。選手としてのピークだった」と振り返る。

現在は山雅のスクールコーチを務めるほか、発達障がいがある子どもたちを対象にした運動教室なども開催。「子どもたちの成長を見るのは楽しい。難しさもあるが、やりがいしかない」と充実した毎日を送る。
Jリーグの山雅でプレーしたのは、途中出場の2試合だけ。悔いはなかったのだろうか。「Jのピッチに立てたのは、全てソリさんのおかげ。移籍したことに後悔はないが、全盛期のあの状態でもう一度、ソリさんと勝負したかった」と今井は笑う。サポーターもあのドリブルを、もっと見たかっただろう。<文中敬称略>

いまい・しょうた 1984年生まれ。上松中から神奈川・桐光学園高に進み、3年時に全国総体16強。びわこ成蹊スポーツ大(滋賀)では天皇杯出場や関西学生選抜。山雅(2007~12年途中)からJFLの秋田(現J2)やMIOびわこ滋賀(現レイラック滋賀)、北信越のサウルコス福井(現福井ユナイテッド)などを経て17年に現役引退。塩尻市在住。