ヤングケアラー当事者の声を聞く 「自分の人生」に目を向けて

家族の医療的なケアや家事など、本来大人が担う世話を日常的に行っている子ども・若者「ヤングケアラー」への理解を深め、支援の在り方を考えてもらおうと、松本市は難病の母親の世話を9歳から24年間した高岡里衣さん(京都市)の講演会を8月に開きました。話の一部を紹介します。
小学校から帰ると、電車に乗って母親の入院先へ着替えなどを届け、病院の売店で夕食を食べて塾に行く生活でした。家事なども行っていましたが、それらは母親や働く父親を支えたいという、一生懸命なお手伝いの範囲。実際は手伝いを超えた、年齢に見合わないケアや責任を担っていたのに、当時はヤングケアラーという言葉も周囲の支援もありませんでした。
ヤングケアラーが抱える問題として、▽いつも疲れていて授業中に寝てしまう▽不登校▽友達と遊ぶ時間が無い▽進学や就職の希望が持てない▽自分より家族を優先してしまう|といったことがあります。全身全霊で家族を世話する責任感の強い子どもの場合が多く、私も周囲の大人たちから「お母さんのお世話頑張ってるね」などと声をかけられました。でも、なぜ疲れているのかなどの背景には目を向けてもらえませんでした。
学校では友達ができず、用務員のおじさんとの語らいが唯一癒やされる時間でした。1人で花壇にいても詮索されず、花の名前を教えてくれたり一緒に色づく紅葉を眺めたりと、ただそこにいる子どもとして接してくれました。卒業式には「応援しているから」と握手をしてくれ、自分を1人の子どもとして見守ってくれる大人の存在が本当にありがたかったです。
中学、高校時代は理解してもらうことを諦め、「消えてしまいたい」という希死念慮(死にたい気持ち)を抱きました。心身の不調や不眠なども母親のケアなどが原因とは思わず、分かってもらえないつらさ、孤独感、将来への不安などで心が晴れる日はありませんでした。
33歳の時に母が亡くなり、「つらかったけどお母さんと一緒に生きられて幸せだった。ずっと自分より母親を大切に生きていた人生だった」と実感しました。でも、ケアが終わったからといってすぐに新しい人生は始められず、自分を再構築しなければならないつらさを抱えました。ヤングケアラーという言葉が世の中に出るようになって、初めて「私は当事者だった。私の人生は私のもの」ということに気付けました。

講演後、質疑応答の時間もありました。「埋もれているヤングケアラーを見つけるために、どうしたらアンケートに答えてもらえるか」との質問には、「かわいそう、悪いという雰囲気が感じられると答えたくない」「いつヤングケアラーになるか分からないので、1回だけでなく継続して調査してほしい」と高岡さん。「当事者を見つけるポイントは?」には、「『その子がいないと家庭がまわらない、その子に自由な選択肢があるか』といった状況が分かること」と例を挙げました。
参加した松本市障がい者基幹相談支援センター(双葉)の機能強化コーディネーター山﨑井子さん(58、松本市)は「ヤングケアラーを分かっていたつもりだったが、そうではなかった。今後は心に留めて活動したい」と話していました。
松本市では8月現在、17世帯20人のヤングケアラーを確認。対象となる世帯への訪問や、アンケートによる子どもたちの実態把握、研修会、周知啓発活動を行っています。