【闘いの、記憶】プロ野球巨人、中日などでプレー 柳沢裕一さん(54、松本市出身)

2軍落ち瀬戸際の横浜戦

巨人の長嶋茂雄監督にプロ球界にいざなわれ、中日では星野仙一監督(以上故人)に周りへの気遣いを学び、落合博満監督には「スーパーサブ」として起用された。名だたる指揮官たちの下で13年間、扇の要を担った元捕手の「闘いの記憶」は、初めて先発マスクをかぶりヒット3本を放った一戦。「あそこで打てたから次があった」と、現役最多の57試合に出場した1997年を懐かしむ。

明治大4年の自身のプロ入りが決まった93年のドラフト会議は、上位指名の候補が希望球団に入団できる「逆指名制度」が初めて採用された。11月4日、柳沢は自身の獲得に真っ先に乗り出した巨人と、都内のホテルで事前交渉に臨んだ。
国民的スターでもある長嶋監督に初めて会い、あいさつを交わして話が進む中で“ミスター”が言った。「ジャイアンツのユニホームを着て一緒に汗を流そう」。その場で入団を決心した。「あの一言が決め手だった。他の球団の話を聞くこともできたが、それは失礼だと思った」
しかし、入団直後から試練が待ち受ける。逆指名で人気球団入りしたルーキーの注目度は想像以上で、キャンプ前から肩に違和感があったが、連日の取材攻勢に「痛いとは言えなかった」。それが災いし、1年目を棒に振った。2年目は長く1軍に帯同して4試合に出場したが、3年目は再びけがに泣いた。
正念場の4年目は開幕戦からベンチ入りし、途中出場して4月29日の阪神戦でプロ初安打も記録。ようやく初先発となった5月5日の横浜戦は、「このチャンスを逃せば明日は2軍」という瀬戸際でもあった。結果は横浜の2投手から計3安打。守っても石井琢朗と波留敏夫の盗塁を阻むなど大活躍。次の試合ももちろん先発した。
ここからーのはずだったが、夏の横浜戦で波留のファールチップが左膝を直撃して骨折。99年途中にオリックス、2001年に中日へと渡り歩くが、この年以上の出場数はない。「とにかくけがの繰り返し」の現役生活だった。

わずか1年半の在籍ながら、オリックス時代はイチローと親密だった。当時26歳ながら、すでに5年連続で首位打者とパ・リーグを代表する選手に、2歳上の柳沢は気安く「よろしくね」と声をかけた。松井秀喜や清原和博らを擁する巨人から移籍した選手ならではの逸話だが、これが「孤高のスター」の心を溶かした。本拠地の神戸にいる時はほぼ毎日、イチローと夕食を共にしたという。
19年からBCリーグ・信濃グランセローズの監督を務め、昨年は球団初の独立リーグ日本一にも導いた。今季終了後に8年目となる来季の続投要請を受けたが、「簡単に決めることではない」と回答を保留している(10月14日現在)。
自身は名将といわれる指揮官たちの下でプレーしてきたが、目指す監督像を尋ねると「誰々のようにーというのはない」ときっぱり。「選手には感謝と素直な心を持ってほしい」というのは、自身の現役時代の経験からにじみ出た言葉だ。<文中敬称略>

やなぎさわ・ゆういち 1971年生まれ。城東フェニックス-松本シニア-松商学園高-明大。ドラフト2位で巨人に入団し、5年半で70試合に出場。オリックスで13試合、5年間在籍した中日でも121試合に出場し、通算67安打。2006年に現役引退し、16~18年に楽天2軍バッテリーコーチ。信濃監督としてリーグ通算265勝139敗28分け。