【闘いの、記憶】松本山雅FCなどで活躍したFW 髙崎 寛之さん(40、松本市)

「当然勝つ」思っていた一戦

14年間のプロサッカー選手生活の中で、4年という最も長い期間、松本山雅FCでプレーし、ストライカーとしてJ2優勝とJ1昇格にも貢献した。その「闘いの記憶」は、2016年のJ1昇格プレーオフで敗れたファジアーノ岡山戦。この一戦の悔しさが、3年後のJ1昇格の糧になったという。
山雅は16年のJ2リーグを3位で終え、J1自動昇格を逃して昇格プレーオフに回った。この年の3月、J1鹿島アントラーズから期限付き移籍した髙崎は、チーム最多の16得点(リーグ6位)の活躍を見せた。
11月27日にアルウィンで開催されたプレーオフ1回戦。相手の岡山はリーグ6位。引き分けでも勝ち上がる試合で山雅は前半に先制され、後半に追いついたものの、ロスタイムに決勝点を奪われた。「当然勝つと思っていた。ぼうぜんとした」と髙崎。自身が得点に絡めなかったことも含め、この一戦の悔しさを晴らすために、山雅でプレーし続けることを決意。鹿島に戻る選択肢を捨て、翌年に完全移籍した。
     
山雅がJ2優勝で2度目のJ1昇格を決めた18年のオフ。髙崎は契約更改の席でクラブに「2年契約」を要望した。当時の年俸はチーム内で最高クラス。クラブ側の回答は「年俸はさらに上げるが、33歳になる年齢も考慮すると、単年契約しかできない」だった。
髙崎は「年俸は半額でもいい」と食い下がったが、クラブ側は首を縦に振らなかった。この時、「また1年でJ1から降格したらクビ」という意図を察したという。19年のJ1リーグの結果は、18チーム中17位。J2自動降格が決まり、チームを8年間指揮した反町康治監督は退任。髙崎は18試合に出場して得点はゼロ。オフに契約満了を告げられた。
「2年契約にこだわったのには訳があった」と言う。当時のチームは先発11人の平均年齢がJ1の中で最年長になる試合もあり、以前からクラブの若返りの方針を感じていたが、「世代交代は、若手が実力でベテランを追い抜いて成るべき。年齢だけで判断して編成すると、チームは崩壊する」と髙崎。同学年で守備の柱のDF飯田真輝も契約満了になり、「自分をチームに残してほしい。駄目なら飯田を残して」と訴えたが、かなわなかった。その後、山雅はJ2からJ3に降格。髙崎は当時から、その低迷を予感していたという。
     

22年にプロを引退。農家に転身して「信州Farm Land」を立ち上げた。24年に運営会社を設立し、キノコのシロヒラタケやスイカ、長芋などを生産している。
「サッカーでやったことを、農業に生かしているだけ」と笑う、その心は? 「とにかく質より量。やってやりきって経験を積まないと、サッカーも農業もうまくならない」。現役時代にJリーグ8クラブを渡り歩き、酸いも甘いもかみ分けてきた男が、第二の人生を歩む場所としたのも、愛したクラブがある松本だった。

(文中敬称略)

たかさき・ひろゆき 1986年、茨城県生まれ。駒沢大時代に頭角を現し、2008年にJ1浦和レッズ入り。水戸、甲府、徳島、鹿島、山形を経て16年に山雅へ。19年まで在籍し、その後に岐阜、甲府でもプレーした。J1・J2・J3通算344試合出場86得点。現在は株式会社TGR(山形村)社長。