
松本市の浅間温泉の一角に、昨年11月まで「赤いピアノ」というれんが造りの瀟洒なレストランがあった。店名の通り、真っ赤なグランドピアノが置かれ、その音色が食事やお酒の味を芳醇にした。
安藤汎さん(81)、淨子さん(79)夫妻が長く切り盛りし、繁盛した。とりわけ信州大の学生に愛された。近年、客足が減ったため、夫妻は創業半世紀を機に店を閉めた。
大事にしてきたピアノも行き場を失いかけたが、店ゆかりの音楽家から「ピアノが活躍できる所がある」と譲渡先を紹介された。松本から遠く離れた相模原市のデイサービス施設「ユソーレwithメロディーズ」だった。
話がまとまりピアノは赤い姿のまま新天地へ。施設に通う高齢者たちに、日々の生きがいを与えている。
「店とピアノが結んだ縁に感謝」
「最後は皆さんで『故郷』を合唱しましょう」。女性ボーカルの呼びかけに、椅子に座った高齢者たちが「兎追いしかの山…」と歌い始めた。
「ユソーレwithメロディーズ」で7月に行われた音楽ライブ。サックス、ギター、ピアノなどでつくるバンドが優しく歌声をリードした。
腰の手術をしたばかりの車椅子の女性(78)は「すてきな音楽のおかげでリハビリのつらさを忘れました」と喜び、「またあしたね」と周りにあいさつして家路に就いた。
「メロディーズ」は音楽に特化したデイサービス施設。統括マネジャーで介護福祉士の資格を持つ竹岡茂也さん(73)はプロのミュージシャンでもある。「ここでは日替わりでライブを開き、通所のお年寄りたちに心身共にリラックスしてもらっています」と語る。
今年4月のオープン。その準備段階で一つの念願を抱いた。「ピアノがあればもっといい演奏を提供できるのだが」
中古でも安い買い物ではない。半ば諦めかけたところに、「メロディーズ」の演奏仲間でサックス奏者の佐藤宏信さん(60)が朗報をもたらした。「近く閉店する松本のレストランがグランドピアノの譲渡先を探しています」。「赤いピアノ」だった。
1976(昭和51)年春、安藤汎さんの兄が「食事にお酒、生演奏を楽しむレストラン」という触れ込みで創業し、全50席の店の真ん中にグランドピアノを置いた。赤く塗り、店名にした。
3年後、汎さん、淨子さん夫妻が店を継いだ。最初は浅間温泉の宿泊客や地元の人たちがやって来た。次第に信州大のジャズ研究会など音楽サークルの学生が多くなり、思うままピアノを弾いた。
運動部の学生も大挙して押しかけ始めると、にぎやかどころかうるさくなった。
「何度『静かにして。ピアノの上に飲み物を置かないで』と叫んだことか」。夫妻は笑って往時を振り返る。
県内外のプロの演奏家が極上の音楽で店を包みもした。その一人が佐藤さん。「近年は月2回ほどのペースで演奏しました。レトロな雰囲気が気に入り、お客として来てもくつろげました」
だが、温泉街が活気を失うのに合わせ、店の客足が減った。信大生も珍しくなった。夫妻は昨秋、「創業から半世紀。後継者もいないし、自分たちに余力があるうちに」と、結婚記念日の11月12日に看板の灯を消した。
唯一の心残りが「愛着あるピアノをどうするか」だった。思案を佐藤さんに打ち明けたことが「メロディーズ」への譲渡につながった。
悔いなく店内を片付けた夫妻だったが、ピアノの梱包を見ていると感傷的に。「娘を嫁がせるような気持ちだね」。汎さんは淨子さんにつぶやいた。
夫妻は市内で悠々自適の生活に入ったが、無聊をかこってはいない。かつての常連客が懇親会を開いてくれるし、全国の信大OBから「夫婦で遊びに来て」と声をかけられるからだ。相模原市でのピアノのお披露目会にも招かれた。
「これも店とピアノからもらった縁。感謝しています」。懐かしい一人一人の顔と共に、赤いピアノが思い浮かぶという。