【闘いの、記憶】MTBクロスカントリー五輪代表・元監督 鈴木雷太さん(53・松本市)

オランダ遠征22歳の転機

2000年シドニー五輪日本代表という競技実績だけでなく、その背中を追う多くの選手が集い、松本平はマウンテンバイク(MTB)競技の全国的な拠点になった。近年は自転車文化の振興にも尽力する先駆者の「闘いの記憶」は、自身を競技に導いたオランダ人の恩師との思い出と、五輪代表の座をつかんだ最終選考会のレースだ。

今年2月、若手を指導するためオランダに赴いた鈴木は、ある人の墓前に立ち故人をしのんだ。昨年12月に亡くなった、MTB元オランダ代表コーチのヒューブ・キビットさんだ。
1994年冬。当時ロードの選手を目指していた鈴木は、冬場の練習として取り組んだオフロード競技のシクロクロスで好成績を挙げ、オランダ遠征のチャンスを得た。そこで指導を受けたのがキビットさんだった。シクロクロスを主体に「自転車競技の基礎を、徹底的にたたき込んでくれた」という。
およそ3カ月後、帰国する際にキビットさんに言われた。「お前は上り坂が強い。MTBのクロスカントリーに転向した方がいい」。その言葉に迷うことなく従った鈴木は「日本から一人でやって来た、何の実績もない22歳の若手をちゃんと見てくれた。あの人がいなかったら、その後の自分はなかった」と振り返る。

シドニー五輪のMTB日本代表は、その年のジャパンシリーズ1~4戦の成績で決まることになっていた。前年のアジア大陸選手権(マレーシア)で優勝し、日本の五輪出場枠を獲得した27歳の鈴木が本命視されていた。
第1戦が3位、第2戦はパンクで2桁順位に沈み、第3戦も2位。3戦とも優勝者が異なる混戦だったが、鈴木が代表に選ばれるには、第4戦で勝つ以外になかった。「それまでは心も体も熱くなっていたが、第4戦は戦う前からとにかく冷静だった」
6月4日の最終選考レースは終盤、開催地の島根県出身で、同じ松本を練習拠点にしていた6歳年下の後藤清作との一騎打ちに。残り1周半、鈴木のチェーンが外れる。第3戦も同じトラブルで優勝を逃していた鈴木だが「普通に冷静だった」。
10秒ほどで直してレースに復帰。すぐに前を行く後藤に追い付くと、若い相手に焦りが出て勝負がついた。

2007年、自身の後継者と見込んで松本に連れてきた、後に五輪4大会に連続出場する山本幸平(40)に「全く勝てなくなった」と引退を決意。翌年、市内に自転車店を開く一方、12年ロンドン以降の五輪3大会でMTB日本代表監督を務め、山本ら後進を指導した。
現在は県ジャパン・アルプス・サイクリング・プロジェクト(JACP)代表として、自転車を通じて信州の魅力を広く発信している。「自転車は自分の人生。もっと生かした社会をつくるために活動したい」。生涯ペダルをこぎ続ける覚悟だ。<文中敬称略>

すずき・らいた 1972年、愛知県岡崎市生まれ。中学3年の時にロードレース「ツール・ド・フランス」を見て感動し、自転車選手を目指す。1995年に練習環境を求めて松本市に移住し、チームブリヂストン・アンカー・クロスカントリーに所属。99年ジャパンシリーズ年間チャンピオン。2002、05年全日本選手権優勝。