【闘いの、記憶】ボディービルの県内先駆者 林英二さん(58、松本市)

日本選手権挑み続けた日々

小学校や養護学校の教諭の傍ら、筋肉美を競うボディビルに30年以上前から取り組み、教え子たちに「筋肉先生」の愛称で親しまれている。その「闘いの記憶」は、自身の名を広めた1997年の全国大会初制覇と、競技の最高峰の舞台・日本選手権に挑んだ毎年の過程という。
体重無差別で日本選手権の登竜門的な大会・ジャパンオープン。「周りは雑誌で見るような選手ばかりだった」という大会に、95年に初出場した林は10位入賞し、専門誌に小さな写真が掲載された。翌年は9位。
本格的に競技を始めて5年目、30歳の3度目は「また少しでも順位が上がれば」くらいの気持ちで臨んだが、一気に頂点に立った。専門誌の扱いは前々回とは比べものにならないくらい大きく、ボディビル界で自身が全国区になると同時に「競技が面白くなった」。
林はボディビルについて「練習は毎年同じことの繰り返し。本番(大会)に向かうまでが本当の競技で、そこまでやってきたことが全て。本番で何とかしようと思っても、何もできない」と言い切る。
ジャパンオープン優勝の実績を引っさげ、98年に日本選手権に初挑戦したが、12強に残れず予選落ち。翌年も翌々年も高い壁に跳ね返された。2001年に初めて10位入賞したが、翌年からまた予選落ちが続く。05年に現在までの自己最高の8位となるが、翌年から再び予選落ちが続いた。
「8位になった後の予選落ちは、さすがにショックだった」と言うが、「いつも紙一重。このまま終わりたくない」と諦めずに挑み続けた。
09年に4年ぶりの11位入賞。「不屈のファイナリスト」と呼ばれるようになったのはこの頃だ。以降16年まで8年連続で決勝に残った。
1年を通じての過酷なトレーニングに加え、厳しい食事制限にも耐えなければ、トップレベルは維持できない。が、ボディビルはあくまで「趣味」と位置付ける選手が多く、林のように予選落ちを繰り返したり、長年決勝に残ったりする例は少ない。
日本選手権を4連覇(01~04年)した田代誠(54)や、同じく9連覇(10~18年)の最長記録を持つ鈴木雅(45)ら国内トップ選手が「毎年高いレベルできっちりと仕上げてくる林選手こそが、本当のボディビルダ―」と称賛するのは、愚直に競技に取り組む姿勢とステージ上で見せる気迫が、ともに戦うライバルたちに伝わるからだ。
19年は股関節のけがの影響で満足な練習ができず、「こんな体を見せるのは他の選手に失礼」と、前年まで21回続けて挑んだ日本選手権を欠場した。以降はコロナ禍もあり、コンテストには出場していない。
それでもトレーニングを続け、食事にも気を使っている。「ボディビルは生活の一部。やめられない」と林。「昔と違い、今はいろんな大会がある。(コンテストは)『出たい』という気持ちになったら考える」
いぶし銀の輝きを放った体に、闘志はまだ宿っているようだ。〈文中敬称略〉

はやし・えいじ 1966年、大阪府生まれ。信州大で柔道部に所属し、卒業後に教員に。92年に「ボディビル」を始め、93年に初出場の県大会で優勝。日本選手権は21回出場し入賞10回。田川小、県松本養護学校、三郷小などを経て現在は県安曇養護学校あづみ野分教室に勤務。