
22歳で戦力外 悔しさ力に
松本山雅FCが日本フットボールリーグ(JFL)にいた2011年途中から所属し、初のJ1昇格(15年)を置き土産に現役を退いたDF。守備の要としてだけでなく、強い精神力でチームを叱咤したレジェンドの「闘いの記憶」は、22歳で経験した「戦力外通告」。その悔しさがプロの自覚を芽生えさせ、後に10年余にわたりJリーガーとして活躍する礎になったという。
プロ2年目の2000年、20歳の年に当時J2のベガルタ仙台に期限付き移籍。1年目に35試合、J1昇格を決めた2年目は25試合に出場したが、完全移籍してJ1のピッチに立つはずだった3年目は、膝のけがでリーグ戦の出場はゼロに終わった。
シーズン終了後に待っていたのは戦力外通告。「2年活躍し、昇格にも貢献したと思っていた。まさか1年結果が出ないだけでクビになるとは」と、24年前のその時を思い出す表情には今も悔しさがにじむが、「プロの世界の厳しさを身をもって知った。考えが甘かった」とも。
ここからプロとしての自覚が芽生え、サッカーとの向き合い方が変わった。アマチュアの地域リーグのチームを渡り歩いた2年間も、右膝前十字靭帯断裂の大けがもあり思うようなプレーはできなかったが、リハビリを含めてサッカーに没頭した。
コンディションが戻ってきた05年、ヴェルディ川崎時代のコーチでその年にJ2サガン鳥栖のコーチに就いた岸野靖之(前山雅アカデミーダイレクター)を頼り、鳥栖のキャンプに参加。認められJ復帰を果たした。「あの2年間の苦しみは本当に大きかった。『もうこういう思いはしたくない』という経験が、その後につながった」と振り返る。
鳥栖の6年間で、走力や「きちんとやること」の大切さ、苦しい時に自分をどうコントロールするかなどプロとしてのサッカー観を築き上げ、5年目は主将も務めた。「本当は鳥栖で引退するつもりだった。『惜しまれてやめたい』という美学があった」と飯尾。3~5年目に監督として仕え、J2横浜FCの監督になっていた岸野の強い誘いで現役を続け、「導かれるように」山雅へ。特に周りの選手にプロの精神面の強さを示し、Jリーグへと導いた。
J2入りした12年。「年齢的にもソリさん(反町康治監督)には使ってもらえないと思っていた」というが、チームを鼓舞する姿勢や献身的なプレーが認められ、山雅のJ初陣となった東京ヴェルディ戦でキャプテンマークを着けた。「これが最も誇れる試合」
J1昇格を決めた14年、リーグ最終節の水戸ホーリーホック戦が引退試合に。アルウィンに集まった観客1万8496人の前で胴上げされ、サポーターの「ありがとう」の声が響き渡った。美学を成し遂げた瞬間だった。
現在は解説のほか、現役時代に学んだことを多くの人に伝えたいと、松本市内でパーソナルメンタルサロン「コラソン」を経営する。「こんなに素晴らしいストーリーを、自分だけのものにしておくのはもったいない」。その言葉は、やり切った充実感に満ちる。 (文中敬称)
いいお・かずや 1980年、東京都生まれ。99年、読売ユースからJ1ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)のトップチームに昇格しプロデビュー。仙台、沖縄かりゆしFC、静岡FC、鳥栖、横浜FCを経て山雅へ。J1・J2通算316試合出場、15得点。