[創商見聞] No.77田村 マーク (タムラ製作所)

 「創商見聞 クロスロード」の第77弾は、塩尻市洗馬で昨年10月に創業し、溶接・板金加工などを手がける「タムラ製作所」の代表、田村マークさんに、塩尻で創業に至った経緯などを聞いた。

メイク ユア ドリーム カム トゥルー

【たむら・まーく】48歳。フィリピン・マニラ市生まれ。1988年、14歳で来日。神奈川県立釜利谷高校卒。95年、21歳で、結婚を機に塩尻市に移住。96年(株)トライアン相互(塩尻市)に入社。25年間勤務後、2021年10月に創業し、代表就任。

タムラ製作所

塩尻市洗馬3036-2  ☎080・3534・2567

―フィリピンから横浜、そして洗馬へ
 フィリピンのマニラ市生まれです。父も母もフィリピン人で、国籍は今もフィリピンにあります。
 母は、ずっと日本の神奈川県(横浜市)で働いていて、自分は1988年、14歳で来日しました。当時のフィリピンには中学校がなく、小学校から5年制の高校へと進学するシステムが通例でした。だから「ジュニアハイスクール」ってとても不思議でした。何より日本語が全く話せず、進学については迷いました。
 結局、15歳で中学に入学し、同級生はだいたい3歳年下でした。英語でのコミュニケーションから始めましたが、1年くらいで日本語もある程度話せるようになり、日常生活には支障がなくなりました。高校も横浜の学校に進学し、卒業しました。
 養父が鉄工所を経営していたので、卒業後はそこに勤め、溶接全般の技術を覚えました。大変でしたが、加工技術を学ぶ中で、「ものづくりの楽しさ」を実感していきました。
―風任せの人生
 21歳で妻と出会い、長女を授かり、結婚し「田村」になりました。妻の実家があった塩尻市洗馬に移住しました。妻の実家は農家で、移住直後は野菜作りを手伝いました。その後、塩尻市にある精密鈑金加工会社のトライアン相互と縁ができ、そこで25年働きました。レーザー加工や曲げ加工の技術なども学べました。
 当時はホームシックになりました。でも子育てや仕事などの生活が大変だとは思わなかったです。長男がサッカーを始め、私も指導者を務めました。今もサッカー仲間と交流があり、新しい仕事につながることもあります。
 2005年に義父が他界し、義母も高齢となり実家の農業は徐々に縮小していきました。
 勤務先は、従業員に小規模な副業を容認してくれていました。トラクターなどを置いていた自宅の倉庫を片付け、溶接用の機械を設置。スチール家具やトラックのバンパーなど、溶接加工の副業を少しずつ始めました。 
 「風の吹くまま」人生を歩んできましたが、「自分で物を作りたい=創業したい」という気持ちも、徐々に高まっていきました。
―「やったことないけど、やらせてください」     
 溶接の作業中、倉庫の扉を開けたままやることが多かったせいか、ある日、近所の人から「ちょっとおらほうの田んぼの水路、あそこ直してくんねかい」と相談されました。どうやら、用水路を開閉する水門の、鉄と木材でできている部分が破損したので修理してほしい、との内容。
 「やったことないけど、やらせてください」。なんとか修復できました。すると近所でうわさになり、苗を運ぶ台車から、軽トラックのほろの鉄枠、耕運機のローターまで、いろいろな修理が持ち込まれるようになりました。 
 売り上げ的には大きな額ではありませんが、今も農繁期には、さまざまな農機具の修理を受けています。 
―倉庫を工場に
 溶接や農機具修理の副業が増えてくると、溶接の機械を増設するだけでは足りず、鈑金や加工機械も必要になります。農機具倉庫はいつのまにか「工場」になっていきました。 
 仕事の規模も少し大きくなり理容室のラックやテーブル、カウンターなどのオーダー家具も受注しました。ここでも「やったことないけど、やらせてください」からスタートし、進めていきました。
 「風任せ」で、本当に周囲の要望や環境に合わせて、進む道を決めてきたかもしれません。創業への思いは高まり、20年の秋ごろから塩尻商工会議所に相談に通いました。個人事業主としての創業準備のため、金融や税務関係の対応方法、取引先とのマッチングなど、さまざまな支援をしてもらいました。準備はスムーズに進み、21年10月に開業届を税務署に提出。「タムラ製作所」を創業しました。
―まん防とほうき
 開業した時は、夏頃までに受けた仕事があり、年末までは順調でした。ところが、県内に新型コロナウイルスのまん延防止等重点措置が適用された22年1月から3月にかけては全く仕事がなく、工場を掃除するため、ほうきばかり持っていました。
 世の中、甘くなかったです。支払いのために、退職金を早速崩さないといけなかったのは、精神的にも厳しかったです。
 いつでも仕事が進められるように、工場では準備をしていたのですが、心がとても小さくなっていくのが分かりました。
 新規営業など努力を重ね、年度が変わった4月ごろから仕事を受注できるようになりました。現在約半年が経過しましたが、受注は止まることなく、ほうきを持つ時間は減りました。
―今後のビジョン
 何よりも溶接の技術力を、より高めたいと思っています。自宅周辺には以前の農地があるので、溶接の専門工場を設置できたらと考えています。現在の工場を曲げ加工専門にし、二つの作業場のようなイメージで増設できたら理想です。
 「やったことないけど、やらせてください」。この言葉で「風の吹くまま」歩んできました。発注元が私を信頼し、チャレンジさせてくれたことに感謝しています。「風任せ―」は、日本では、少しマイナスな印象です。でも自分の中では「風の吹くまま、良い方向に帆を張り、進んできた」というイメージです。
 「メイク ユア ドリーム カム トゥルー」。会社の名刺の裏やインスタグラムに明記してあります。自分の夢は創業でした。これからは自分たちだけでなく、「相手側の夢も実現できたら」との思いを込めたメッセージです。
 フィリピンで生まれたので、いつかは故郷で溶接工を育成したいという夢もあります。息子がサッカーをやめ、高校卒業後に「やりたいことがない」と話したとき、溶接の仕事をガイドし、現在は他社で修業しています。一緒にやることも夢です。サッカー指導を通して知り合った他の子どもたちにも、高校などは卒業したけれど「やりたいことがない」と言ってきた時、「ものづくりの楽しさ」をさりげなく伝えられたらうれしいです。