60年続けた肥育農家引退 山形の増沢さん 「牛飼い」の半生振り返る

山形村の増沢和士さん(81)は昨年10月、60年続けた肉牛の肥育に幕を下ろした。村内に在住する最後の肥育農家だった。自宅で飼った農耕牛から数えれば約70年、常に牛が身近にいた。生き物相手の休日なしの仕事を傘寿まで続けられた秘訣(ひけつ)は、強い意志、頑固さ、健康、そして家族や周囲の支えがあったからだ。長い「牛飼い」の半生を振り返ってもらった。

「運動量は、仕事をしていた時の半分。自分が牛にならないようにね」と、苦笑いするその表情には安堵(あんど)感も漂う。
最後の出荷から5カ月が過ぎた今も、自宅から2キロほど離れた牛舎を毎日訪れる。牛の姿はもうはないが、牛舎の中央を貫く長さ約60メートルの通路を5往復歩くのが運動不足を解消するための日課。45年間毎日通った“職場”が役に立つ。脊柱管狭(きょう)窄(さく)症で右足がやや動かしにくいが、「転びそうになれば(脇にある)餌箱につかまればいい」と、勝手を知っている。

養蚕農家の長男に生まれた。中学卒業後はすぐに家業に従事。農協の勧めもあり、将来を見据えて自宅脇の水田に建てた牛舎で肥育していた肉用牛は、頭数を徐々に増やしていった。
さらなる経営規模の拡大を考え1978年、国の「高度農業生産モデル地域整備実験事業」を取り入れた肉牛団地に入植。補助金はあったが初期投資などの負担は多額。反対だった親戚らを、「俺のやりてぇ仕事だから」と押し切り、そこから100頭以上の規模で経営を続けてきた。
途中、牛海綿状脳症(BSE)や口蹄疫(こうていえき)発生による牛肉の消費激減、原料の多くを輸入に頼る飼料代の高騰など、社会情勢に翻弄(ほんろう)されながらも妻・千穂美さん(故人)と力を合わせ切り抜けた。価格が安い月齢の若い子牛を導入したり、飼料を自家配合したりと、手間暇を惜しまず生産コストを削減。体調変化を見落とさぬよう、1頭ずつに目と心を配った。和牛と乳用種の交雑種を育て、その肉は「信州アルプス牛」として地元農協のスーパーや直売所に並び、ファンも多かった。
2014年に千穂美さんを病気で亡くした後も、次女・陽子さん(47)が片腕となり、肥育頭数を維持。「体が資本」と健康に関する本を読み、自家製酵素ジュースを飲むなどして、健康に留意。3年前に脳梗塞で入院した時も、会社員の長男・寿喜さん(42)が時間をやりくりし、孫・美紗さん(10)ら家族が協力して牛舎を守った。
昨秋の最後の出荷日は、家族皆で最後の2頭を見送った。「『やりきった』という思い。地元の消費者に喜んでもらえて励みになった。家族や親戚、農協の職員らには感謝している」と振り返った。
日常生活も支える陽子さんは「本人が見切りを付けるまでは付き合うしかないと思っていたが、まねはできない」と、尊敬のまなざしだ。
今は給餌の時間を気にせず趣味の民謡、カラオケを楽しむ。牛を飼っている間は全員そろっては行けなかった家族旅行に向け「まずは足を治さないと」と、笑顔を見せる。
県内でも、地元農協管内でも農家数が減少するなど、畜産業を取り巻く環境は厳しさを増す。自身が歩んだ道の将来を憂いながら「物価高だが、地元産を食べ、頑張る生産者を応援してほしい」と願っている。