塩尻の小野さん 耳の不自由さ越えボランティア活動

木を削ってつえを作り、訪れた施設や街で脚の不自由な人を見かけると配る。穴を開けてペン立てを作って知人に配る。地域の高齢者の集いで、ハーモニカを吹いて懐メロ歌唱の伴奏をする─。
ボランティア精神あふれる87歳の小野人是(ひとし)さん(塩尻市みどり湖)。活発な姿からは想像しづらいが、右耳に補聴器、左耳には人工内耳を着けている。
難聴者が筆談で会話を楽しむ「筆談カフェ」などに積極的に出かけて情報交換をしたり、難聴者であることを言わずとも周りに知ってもらえるようにと表示グッズを作ったりもしている。「耳の不自由な人に、明るく楽しく暮らしてもらいたい」という思いは強い。

「不自由から工夫を思いつく」

目が見えずに生まれ、3歳ぐらいで見えるようになったという、辰野町で幼少期を過ごした小野人是さん。小学校低学年頃から大腸カタルになって栄養が吸収できなくなったり、中耳炎になったりと「生まれつき体が弱く、いろいろな病を患ってきた」という。
当時は病院が遠かったことなどから慢性中耳炎になり、耳から膿(うみ)が出るために周りの人から「臭い」といじめられる経験もした。また、音を電気信号に変換して脳に伝える内耳の機能が低下したため「声は聞こえていても内容を理解するのが遅れる」状態になり、勉強も遅れてしまったという。
そんな境遇でも「人に負けちゃいけないという気持ちは強かった」。義務教育を終えると、すぐに親元を離れた。当時普及のはしりだった群馬県のプラスチック材料メーカーで働き、成形技術を身に付けた。23歳で独立し、「人がやらないことをやろう」と金型から設計。当時瀬戸物や塗り物が主体だった食器などをプラスチックで製作し、各方面に営業に出向いて売り込みながら、自分のアイデアや工夫を新たな製品作りに生かしてきた。
「恵まれて満足している生活の中では、アイデアは浮かばない。不自由を感じるからこそ『ここをこうすれば具合がいい』という工夫を思いつく」という姿勢は、現在にもつながっている。
両親の高齢化に伴って1963年に辰野町に戻り、保険会社などで勤務。71年に塩尻市へ移り、96年から地域の区長を務めると、社会福祉協議会との関わりから地域のボランティアにも携わるようになった。4年後に区長は退任したが「ボランティアは続けたい。そのためには、迷惑にならないよう、もう少し聴力を付けたい」と人工内耳の手術に踏み切ったという。

耳の知識や経験伝えて人助けを

現在も、ボランティアやさまざまな催しに「見ず知らずの人と友達になれる」と積極的に出かけている。スマートフォンの教室にも通って音声文字変換アプリも使いこなし、楽しみながら活動を続ける。
病気やいじめを乗り越えてきたからこその強さから、「耳が聞こえないのは不自由だが、自分の工夫も必要」と話す。聴覚障害者であることを示すマークはあるものの、意味を知らない人が多いため、地元の企業と共同で缶バッジなどのグッズを作った。耳に手を当てて音を聞く図案を自らデザイン。「難聴」よりも柔らかいイメージをと「補聴」の文字も添えた。
「耳に関する知識や経験は豊富」という小野さん。「聞こえづらい状態を放っておくと、神経が働かなくなってしまう。耳で困っている人に、自分が知っていることを伝えることが人助けになれば」。今日も積極的に活動する。