【闘いの、記憶】空手・女子個人形で4度の世界女王 三村由紀さん(54、朝日村出身)

4度目の世界制覇を果たし、表彰台の真ん中で(1996年11月8日、南アフリカ・サンシティ)

直前に高熱 初の国際大会

世界選手権での優勝4回をはじめ、数々の金字塔を打ち立てた元女王の「闘いの記憶」は、高校2年時に初出場初優勝した国際大会だという。その経験と結果が、大記録につながるターニングポイントになった。
1988年3月。三村は自身が所属する松濤館(しょうとうかん)流の国際大会に初めて出場するため、オーストラリアのブリスベンに赴いた。が、同国入りした試合本番の2日前に、39度前後の高熱に見舞われた。
現地で医師の診察を受け、処方された薬を飲むと熱は治まった。しかし、体調は万全ではない。そんな状態で臨んだ大会で8強入りし、8人による決勝でほかの日本人選手と同点首位に。決着は優勝決定戦でつけることになった。
相手は10歳ほど年上で、流派の本部指導員を務めるなど、高校生から見れば地位も実績もはるかに上の大先輩。三村は「私は『熱が出たばかりだし、負けても2位じゃん』と思い、先輩は『まずい、負けちゃう』と思ったはず。この時点で勝負は決まっていた」と振り返る。
決定戦は三村が圧勝。そしてこの勝利が、同年の第9回世界選手権(エジプト)の代表選考で「思い切って若い三村を連れて行こう」という機運につながり、その後の輝かしい実績の出発点になった。
96年の第13回世界選手権(南アフリカ)は、本番の1カ月ほど前に左膝靱帯(じんたい)断裂の大けがを負ったまま試合に臨み、当時前人未到の「4度目の世界一」を達成して話題になったが、初の国際大会で同じような経験をしていたのだ。
「小学生の頃から、ありとあらゆることを想定して練習していた」と三村。試合の日がとても暑かったら─、床が滑りやすかったら─、会場が暗くなったら─。試合直前のけがなど「想定外」のことが起きても、「もう、だめ」と諦めるのではなく「ここからどうする」と自分に問いかけ、出した答えを実践してきた。
4度目の世界一を成し遂げて引退。当時籍を置いていた筑波大大学院を修了し、非常勤講師として国際武道大、法政大、東京都立大で体育を教え、99年から勤める防衛大学校(神奈川県横須賀市)では常勤講師に。空手を専門に指導している。
現役時代に多くの勝利を積み重ねた勝負師は「『勝たなきゃいけない』と思ったことは一度もない」ときっぱり。「一番大事なのは、自分を表現する方法として今、何を選択するか」だと言い切る。<文中敬称略>

みむら・ゆき1970年生まれ。朝日小低学年の時に松本市の道場「紀心会」で空手を始める。松本深志高3年時に初出場した世界選手権で初優勝し、以降は3大会連続を含む優勝4回(9、10、11、13回大会)。国内でも国体5回など優勝多数。2013年から全日本空手道連盟の理事を務め、20年から防衛大学校空手道部の部長。横浜市在住。

本紙や前身の松本平タウン情報などが現役時代に取材した、中信地区ゆかりの元選手らの、それぞれの「闘いの記憶」や引退後の足跡を紹介します。スポーツ面(毎月第3木曜日)に掲載。