【ビジネスの明日】#39 村山自動車ボデー工場社長 村山聡さん

需要の動向を読み先手打つ

名刺に並ぶ肩書で「塗装職人」の文字が一番大きい。修理や整備を手がける村山自動車ボデー工場(松本市双葉)の4代目、村山聡さん(54)は、「傷、へこみをきれいに直すのは、AI(人工知能)には絶対にできない」と語る。もう一つの肩書、「代表取締役」として需要の動向を読み、技術力を武器に会社を変革してきた。
ぶつけたり事故に遭ったりした車が工場に来る。「状態は千差万別。金属板の厚みもメーカーによって違う」。一つとして同じ復元作業はなく、樹脂など新素材への対応も必要だ。テクノロジーが発達しても練達した職人の技は欠かせないと考えるゆえんだ。
弟の優さん(52)は専務で、板金職人。ともに30年余りの経験を持つ兄弟職人の二枚看板に、最新設備を組み合わせる。完璧な修理を目指す取り組みを「美術品の贋作(がんさく)者のイメージ」と表現する。
要望は丁寧に聞く。修理に満足した客から「車検も」という依頼が増えている。自動運転化する車に備え、工場で電子制御装置も扱える認証を取得した。車検需要の取り込みが経営のポイントになると見込んでこそだ。
先手を打つ経営を心がけ、新聞や業界誌、インターネットなどを読み込む。情報の扱いは昔から得意だった。

子どもの頃は税理士志望。だが、曽祖父が1927(昭和2)年に創業した会社の行方が心配になった。唯一の整備士資格保持者だった祖父が倒れると、工場は続けられなくなる。10人いる社員はどうなるのか。松本深志高校在学中、自分が整備士になると決めた。
東京での修業中、ディーラーが自前で整備や修理をする内製化の流れを目の当たりにした。地元に帰ると、会社の仕事はディーラー下請けが8割だった。取引先を多様化しようと、保険代理店などの営業に回った。
やがて読み通り、中信のディーラーも内製化を進めたが、乗り越えた。今、下請け仕事は1割にも満たない。
事故修理の需要が減るとも読んだ。自動ブレーキなど安全装置は日進月歩。新規採用をやめ、定年自然減で社員を減らした。
今、役員以外の正社員は長男岳さん(24)だけ。自分と同じく、深志高を出て整備士になった。次男(21)、三男(18)も整備士の道を歩んでいる。
3兄弟の少数精鋭で十分に稼ぐ。家業の次代をそう描き、効率のいい経営を目指す。

【プロフィル】
むらやま・さとし1968年、松本市出身。松本深志高卒業後、自動車整備士の学校へ。東京都内で3年修業し、村山自動車ボデー工場入社。2011年、社長就任。松本市高宮北在住。