松本山雅で地域貢献や集客など担当 ボアンポン賢さん自分とクラブ 共に成長したい

ボアンポン賢さん(24、松本市)は、サッカーJ3松本山雅FCの運営会社で、地域貢献や集客などを担当している。高校時代は山雅の育成チームでプレーし、大学卒業後に地元に戻った。「自分の成長と、クラブが再びJ1の景色を見ることが重なるストーリーを描ければ、こんなに面白いことはないです」

「ユースから運営」の手本に

2022年に入社し、ホームタウン担当に。イベントや祭りに元選手やマスコットキャラクター「ガンズくん」を連れ出すといった仕事で、地域とのコミュニケーションを重ね、改めてクラブが急成長した理由を実感したという。それは「山雅を使って地域を盛り上げようとする気持ち、自分ごととして山雅のために動いてくれる人たちの熱量」だ。
ただ、近年はその熱量が減ったと感じている。「これからは集客に関わる仕事も増えるので、地域に根ざしたスタジアムイベントを企画したい」と話す。

支える仕事にやりがい

小学5年の時、松本市の開智サッカースポーツ少年団で競技を始めた。点を取るのが楽しく、旭町中の部活で続け、3年時に山雅U―18(ユース=高校年代チーム)に誘われた。「このままプロになる道もあるかな」と夢を見たという。
だが、ユースに入ると技術の足りなさや、身体能力の強みがなくなったのを感じた。1学年上には、昨季山雅でJ3得点王になった小松蓮選手(25、現ブラウブリッツ秋田)がいた。
最後のシーズンの前に猛練習し、開幕戦で先発をつかんだが、その試合で足を骨折し、「目標が崩れ落ちた」。治るまでチームを支える仕事を担った。水くみ、用具の準備、試合のビデオ撮影…。少しずつやりがいを感じるようになり、「選手はもういいかな」。違う立場でサッカーの仕事がしたいと思うようになった。
日体大に進んでサッカー部に籍を置いたが、居場所はグラウンドではなく、もっぱら全日本大学サッカー連盟の事務局。仲間と終電まで過ごすのはしょっちゅうで、試合運営を任される責任感とやりがいを味わった。
卒業後の進路の決断は、山雅のJ3降格がほぼ決まった時。「山雅はもう上を目指すしかない。いろいろチャレンジできる」と、逆に可能性を感じた。「ユースでは何もできなかった。恩返しがしたい」とも思った。
ユース時代も今も、山雅のエンブレムを着けることに誇りを感じている。選手の道は諦めたが、クラブ運営のキャリアを歩む道を選んだ。「ユースアカデミー(育成組織)からプロ選手になれるのはほんの一握り。彼らの一つのロールモデル(手本)になりたい」と言う。