鍋倉山「森太郎」とブナ原生林の記憶・後編ー「巨木の谷」のスターたち

【右】気品のある風情と滑らかな木肌から命名された「森姫」
【左】「巨木の谷」で最も個性的な樹形だった「こぶブナ」

信越国境の関田(せきた)峠近く、県道上越飯山線沿いにある大神楽(だいかぐら)展望台(飯山市)からは、鍋倉山(1289メートル)のブナ林が一望できる。市民らの自然保護運動で保全された貴重な原生林だ。後編は「巨木の谷」のスター的存在だった「森姫」「こぶブナ」、木肌に「水」の文字が刻まれたブナを囲んだ自然観察会などの記憶を、当時撮影した写真をよすがに掘り起こす。

【初めて巨木の谷へ】
鍋倉山一帯の国有林の伐採計画とリゾート開発構想が浮上したのは1986(昭和61)年。県道から山頂方向へ、林道が約600メートル切り開かれたのも見つかった。
一方、麓の山小屋では、東京都立大OBを中心とする有志ら約20人がブナ林を観察調査していた。翌年5月下旬、入山するメンバーに同行の機会を得た記者は、この林道の奥へ分け入った。
倒木を拾い集め、雪解けで増水した激流に橋を架けて渡る。谷側に伸びるブナの根元を乗り越えながら、残雪の急斜面をトラバースすると、斜度が緩やかに。尾根を越えて「巨木の谷」へ入った。

【一目ぼれした森姫】
最初に出合ったのは、根元からすくっと伸び木肌が滑らかで美しい巨木。幹周り約5メートル、推定樹齢は300年以上。当時日本一といわれたブナ巨木が、87年7月26日に「森太郎」と命名されたのに続き、「森姫」と名付けられた。
見上げていると、自然に心が開いてくる森姫に、一目ぼれした。以来、森姫は記者だけでなく観察会の参加者を魅了し続けた。児童らが幹の周りで楽しそうに手をつなぐ光景もあった。
比較的近付きやすい場所にあり、多くの人に親しまれた森姫だったが、年々樹勢が衰え、2011年6月に枯死が確認された。人気の巨木に人が集中し、根元が踏み固められたのが原因ではないかといわれている。

【奇妙な「こぶブナ」】
一度目にしたら忘れられない、個性的な姿の「こぶブナ」。森姫から森太郎へ向かうルートの中間点付近で存在感を放っていた。幹の高さ1・3メートルの辺りから上に、直径約2メートル45センチの大きなこぶが付いていた。その不思議な樹形が観察会でも人気を集め、森太郎や森姫と並んで巨木の谷のスター的な存在だったが、98年に倒伏した。

【幹に「水」の文字】
87年10月14日。飯山市秋津公民館の観察会に同行し、胸高直径50センチから1メートル20センチほどのブナが林立して「壮年の森」と呼ばれる「西の沢」を訪れた。
講師を務めたのは有志の一人で、現在は古里の高知県土佐清水市に住む弘田之彦さん(66)。いつの頃か「水」の一字が彫られた幹の前で「ブナ1本が1反歩(約990平方メートル)の田を潤す。ブナ林は『緑のダム』といわれている」と説明した。
元信州大特任教授で「いいやまブナの森倶楽部」会長の渡辺隆一さん(76、長野市)によると、この「水」という文字は「里の田畑を潤す山からの水の恵みに感謝し、その水が絶えることがないようにと願う村人が、100年以上前に刻んだもの」という。

【母なる森・ブナ林】
伐採か、保護かー。激しい論争の末、鍋倉山のブナ林は残った。その原動力となったのが、森太郎をはじめとするシンボル的存在の巨木たちだった。ブナについて全く知らなかった人たちも、その魅力に取りつかれた。観察会や写真教室などが開かれ、短期間に多くの人が押し寄せた。
森太郎も森姫もこぶブナも倒伏、枯死したが、原生林の貴重さを多くの人に教え、その保護に貢献した巨木たちを忘れてはならない。広大な田畑を潤し、多くの命を育むブナ林。「母なる森」は、人の心も癒やしてくれる。(丸山祥司)